1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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■6284 / inTopicNo.1)  夜中だけど・・・
  
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2007/10/07(Sun) 01:57:11)
     最近思っていることというか、昨日思い当たったことだけど・・・、私が外に出られないのは(って、社会的行動をしていくっていう意味での・・)、私の行動パターンが成り行き任せになっているからだ。 そうではなくて、外に出て行くためには、目的意識的行動パターンにしていかねばならないということだ。

     目的意識的行動、ずいぶん久しぶりに使う。
     かつて社会的活動をしていたときに最も重視されていたことだ。 自然発生的活動に対置されていた。

     私は、偽の目的意識的活動を長年してきたので、いい年になって以降、もうそれにはこりごりで、ずっと遠ざけてきた。
     それに替わって身に着いてきていたのが、成り行き任せだ。
     しかし、これは実は歴史が長い。 30代の半ば頃から、自分に正直になり始めて以来のものだ。 それまでの、ガチガチの「(斯く)あらねばならない」という鎧を脱ぎ捨てて、まるで軟体動物にでもなったように力を抜いていって以来なのだ。

     共依存を自覚して以降、発見し自覚した自分を育てていくとき、この成り行き任せというか、他の影響を受けない、ただ、自己に依る動きを獲得していく上で、自分に正直な行動は、より重視され、それはある種必然的に成り行き任せになっていった。 あらゆる意味で自分に強制することを、排除していたのだから・・・・。

     だが、それでは通用しなくなったのだ。
     先日、週一の卓球に行けなかった。 夜更かしのため、体調が悪かったからだ。 それが1度や2度ではない、もう3度か4度になっている。 9月度はろくすっぽ行っていない。
     夜更かしは、何十年という歴史を持っている。 ここでも何回か触れている。

     これを改めるには、もう、目的意識的行動しかない。
     自分が、何かをしていこうという目的が無いと、成り行き任せになるのだ。
     もう1年を超えたおさんどんも、成り行き任せの延長線上だったから、朝も昼も通常よりも2時間遅れ3時間遅れになっている。 朝は早くて9時半遅ければ10時を過ぎるし、昼は2時ぐらいだ。
     確かに一定の行動をやってきたことは評価できるが、社会的行動に踏み出す上では、それでは足らないものがあるのではないだろうか?
     
     根本的な姿勢というか、物事に対する姿勢というか、が、問われているように思う。

     成り行き任せだと、夜更かしもするし、せっかく行き始めた卓球だって休んでしまうことになるし、おさんどんだって、時間がずれるのだ。 昼間しんどくて横になるし、当然庭は草茫々になるし、運動したらいいのはわかっていても、実際には何もしないということになるのだ。

     これは、ギーッと、舵を切りなおさなければならないと、思うのだ。

     かつての「ねばならない」ではなくて、自分が「こうやっていこう」と、いうような、「自発的な」「能動性」を獲得していかなければならないのではないか?!

     これは、私にとっては、大転換である。

     ずーっと受身で来ていたし、他からやらされるという感じで動いてきていたわけだから・・・・。

     能動性の獲得は、自らへの信頼がないと、できない。
     幸い、それは、自分を発見し、育ててきたことで、かなり自然体で、少しだけど獲得されてきている。

     私の心の基本基調であった「動かない」ということも、それが始まったときの私に思い当たったこと=インナーチャイルドの発見で、むしろ心が動き始めたところがあるのだ・・・。 そうか、そうだったのかと思い当たったことで納得が入ったのか、後ろを振り返ることが無くなったような気がする・・・・。

     成り行き任せで、自分の陣地を拡げてきたところがあるが、これからは、ちぃと考えて、目的意識的に陣地を、テリトリーを、広げていくかな・・・・・。
引用返信 削除キー/
■6285 / inTopicNo.2)  Re[1]: 夜中だけど・・・
□投稿者/ こくーん -(2007/10/07(Sun) 05:45:21)
    2007/10/07(Sun) 05:47:32 編集(投稿者)

    SILVER7さん、こんにちは。
    随分涼しくなってきましたねv

    的を射た書き込みではないかもしれません…ズレていたらごめんなさい。

    私はある時からピタリ、と予定を入れるのがコワくなりました。
    自分がやりたいと思っていたお稽古事も同様で、●日の○時〜という動かせない
    モノが入ることに恐怖感…というか、自分の何かを切り取られるような感覚が生
    じるようになりました。

    それは仕事で『ねばならない』が増えた頃…パニックが出始めた頃と前後しています。
    それまでの私は、表面的にはそれなりの向上心を持っていて(内側の破壊的、絶望
    的意識を自覚しつつも)、動くことができていたのですけれど…ね。

    今の私は、ただ追われるまま、成り行きにまかせた生活です。
    ただ、それもまた、自分の人生の主導権を失った状態だからなのか、気持ちの中に
    楽な部分と、背中を押されながら生きていく苦しさがあったりします。
    …一体、何のために私は生きているの?

    『人はパンによってのみ生くるに非ず』というならば、私が能動的に生きるために
    必要な『何か』はどうしたら見つかるの…?
    そんなことを思っています。

    ただ最近思うのは、独り、頭の中で考えるだけではそれは獲得できないのではないか
    ということです。人との関わり…これが不可欠なのではないか…。
    そして、人と『ありのままの自分』で関わるためには、SILVER7さんのおっしゃる、
    >自らへの信頼
    がとても重要なのでしょうね。

    [動かない]が基調だとおっしゃっていたSILVER7さんの書き込みを拝見したとき、
    …あの、何だかすごく苦しい感じがしたのですね。
    子どもを観ていると、動きの大小こそあれ、じっとしていないのが常で、もぞもぞ
    動き回る…。[動かない]ということを強制されることこそ、苦痛なことに見えます。
    だから、[動かない]ことを基調とすることを獲得されたSILVER7さんに、自分の身の
    内の[動けない自分]も含めて、苦しさを感じたのかな…と今、思います。

    少しずつ、外へと開いていらっしゃるSILVER7さんの意識はすてきなものだと感じ
    ています。その転換が喜びと安心に支えられることを願ってやみません。
    自分勝手なことを書いているかも…。
    不快に思われることがありましたら、ごめんなさい。

    それでは。
    今後もこの話題に関するお話をお聞きできたらうれしいです。

引用返信 削除キー/
■6287 / inTopicNo.3)  Re[1]: 夜中だけど・・・
□投稿者/ はなぽん -(2007/10/08(Mon) 22:28:01)
    目的意識行動っていうものを私が理解していないかもしれませんが・・・

    卓球、楽しいですか?楽しいからまた行こう!行くためには前日に早寝して、備えるんだ!っていうのが目的意識行動ですか?

    はなぽんは、剣道やっていましたが、たしかに好きでしたが、行きたくないことが多かったですよ。行くのは面倒だけど、行けば楽しい、って気づいてから、行きたくなくても行けるようになりました。

    初めて参加する場所は緊張するけど、とにかくそこに行かねばならないと我慢して通ううちに、いつの間にか、そこの人になれるんです。それがはなぽんが学んだ、やり方なんです。

    行かねばならないという意識は、行きたいという気持ちを応援してくれるものだと思うんです。

    家事も、食事のしたくは、毎日時間に追われていますが、それは、遅くなると泣き叫んでしがみついてくる奴がいますので、とにかくやらねばならない。でも、出来合いの惣菜は食べてくれないので、私が作りたいんです。どっちも同じく私の気持ちなのですね。両方がうまく作用すると、スムーズに行きます。

    パソコンの調子が悪いので、この辺で・・・
引用返信 削除キー/
■6292 / inTopicNo.4)  Re[2]: 的を射ていますよ♪
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2007/10/09(Tue) 23:52:59)
    2007/10/09(Tue) 23:59:48 編集(投稿者)

     的を射ています。 それも、すばやい対応で(いや〜、実は、もしかしたら、どなたかのレスがついているかもしれないと、あれ、何時ごろだったかな〜、8時ごろだったか、もうちょっと早かったような気がするけど・・開けて見ていたんですが・・・、あ、当たった〜と、思いました・・・)、私の方が、いろいろ動くことなどあって、レスが遅れました・・・。

     「私の基調は<動かない>」は、苦しい文章だったって、言われてみれば、当たっていますね。 う〜ん、なるほど〜と、思いました。
     確かに、「動かない」ことを選択することになった、と、言うか「動けなくなった」ことは、苦しいことだったですね。 その後の私の苦しさの始まりだったんですね。 ・・・・・こう、書いてくると、また、さまざまなことが思い巡らされます・・・・・。

     ただ、今回のスレッドにも書きましたが、あの書き込みは、私にとって、転機になりました。 ほんとうに、それまでの、後ろ髪を引かれるような気持ちが、無くなっています・・・・。
     私はね、20代のはじめ頃だったと思うんですが、その当時の自分の生きざまを、後ろ向きに川をさかのぼって行っているようだ、と、連想していました・・・。 遡行という言葉が、付いて離れませんでした・・・。
     遡るんですから、当然波をかぶるんですよね。 それを、後ろ向きでやるんだから、人並みじゃ、ないですよね♪
     でも、そんな気分でした。 確かに何かやってはいる、しかし、自ら望んだことではない、ほんとうはやりたくないというか、とてもそんな気持ちなんか持っていやしないんだけど、やらなければならないようになっているからやるんだ、やっていくんだと、悲愴と言うか滑稽と言うかね。
     私は、その時点で、そんなことを10年以上やっていたわけです・・・・。

     そして、基本的に、自分を発見するまで、その後のうん十年かを、そうやって来ていたんですね。

     一方、苦しさのあまり、欲求水準をゼロにすることを覚えて、それこそ軟体動物のように力を抜いて、自分の気持ちに正直になることも覚えてきていたんですね。

     そして、よいよ自分を発見してから、その自分を育てることに集中しましたから、周りからの私に求められることには、最低限の対応で来ていたんです。
     多少、自分が育ってきているように思えたので、そろそろ外に出てみるかと、穴から首を出すように周りを見始めたんですね。
     でも、まだ、その気だけでは、実際に動くことは難しいんですね。
     動く力が付いていないと動けない、と、思います。

     恣意的に(気ままに)動いているだけでは、その範囲、動ける範囲だけのことなのではないでしょうか?
     自分のやること為すことを、意図的にしていくということが、要るのじゃないかな〜と、思うんです。

     これは、ある意味、自分にまた再び、あの鎧と言うか甲冑と言うか、あるいは自己規制と言うか、自分から自分の首をどちらかに向けさせるような、そう、強制力を働かせると、いうことですよね。

     ただ、それが違うのは、後ろ向きではないかもしれない、と、いうことですね。
     そう、受動、受身ではなくて、自らの意思で、何かに挑戦していくという意味での、能動性を持って行くと、いうことのように思うんです。

     やること為すことが、そのような意図的なものになるということじゃないかな〜と、今、思っています。

     それはねえ、もう、まるっきり意識が違うことなんですね。
     目的意識的行動をと思い始めてから、何か特別のことをするわけではないんですが、それこそ、一挙手一投足、起き伏し、身振り手振り、目の見開きよう、耳のそばだてよう・・・・・まで、意図的にやるか成り行き任せにやるかでは、違うんですね。
     なんか、変な話ですが、目が覚めたような感じです。 ただし、全部ではない、まだ、前の自分も多分に居るわけですから、相変わらず昼間横になることもあるし、夜更かしだって、まだやっている。 それこそ、碁の陣取りと同じです。 取ったと思っていたところが、取り返されることだってあるんです。

     かつてやっていた、言われてやる「目的意識的行動」は、辛いばかりでしたが、今、やってみているのは、「うん?、これかな?」という風な、発見がありますね。 自分の中から出てくるというか、自分が「やってみている」という風な、自分のものというか、新鮮なものがあります。

     長くなりました、そんな風な、今、感じていることを合わせて、書いてみました。・・・・・
引用返信 削除キー/
■6293 / inTopicNo.5)  Re[2]: 自分への信頼
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2007/10/11(Thu) 00:06:57)
     まったく、そのとおりですね。
     「行きたくない」というのは、後ろ向きかもしれませんが、はなぽんさんは、その先に「いいことが待っている」ということを、見出していたと、いうことではないでしょうか? その後の家事も、初めて行くところでも、辛さを感じていても「やらなければならない」という、任務のようなものを感じておられるようですね。
     それ、ある種の自己肯定感じゃないかな?
     なんか、辛さの先に、肯定できる自己イメージが持てる、みたいな・・・・。

     それ、だいじなところじゃないでしょうか?
     
     そのイメージがあるから、我慢していく、やる・・は、かなりな辛さを伴うのかもしれませんが、目的意識的行動じゃないかな〜?

     成り行き任せは、「何かが得られる」とか、「・・・を実現して行こう」という、目標が持てないというか持っていない状態のような、気がします。
     私の場合で言えば、自分に正直なんですが、だからこそ、行きたくないときは行くことを止めるし、眠る気持ちになれないと、その気持ちのままにというか、習慣になっている夜更かしを、グイッと改めていこうという気が起こらないままに任せる、と、いうことのように思います。

     「どこそこに向かっていく」という、目標、目指すものと、そこへ向かっていく意志のようなものが要るんだと、思うんです。

     何かをやっていくというときは、それが要るようですね。

     その意志というのは、他人のものではないんですね。 やり手は自分ですから、自分が思うかどうかですね。 と、いうことは、自分というものが、兎にも角にも無いと、出て来ようがないということではないでしょうか?

     だから、最初に書いたように、はなぽんさんが、辛くても剣道を続けたのは、自分としての喜びを見出していたのではないでしょうか? 誰か、他人のものではなくて・・・。

     家事も、初めてのこともそうですね、自分の姿がイメージされているようですね。

     人との関わりのなかで、意識していなくても選択していく自己肯定、これはだいじなことですね。
     自分への信頼は、生きていく上での決定的ファクターかもしれませんね。

引用返信 削除キー/



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