1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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■5345 / inTopicNo.1)  友人が、亡くなりました
  
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2006/11/01(Wed) 00:24:02)
     思いはいっぱいありますが、明日は葬儀だし、もう遅いので、先ほどできた詩を載せて、とりあえずの書き込みとします。 また、改めて、書くかもしれません。


         友人

     友人が亡くなった

     50年を超える付き合いだった

     バタバタと 急激に悪化して
     あっという間に亡くなった

     もう 会うことができない


     彼と会った数々の記憶は まだ色鮮やかだけど
     やがて セピア色に 霞んでいくのだろうか


     もう 会うことは できない


                                 ('06.10.31)

引用返信 削除キー/
■5350 / inTopicNo.2)  Re[1]: 友人が、亡くなりました
□投稿者/ いろは -(2006/11/02(Thu) 19:42:45)
    50年来のおともだちってどんななんだろう。。。
    いろはにはお友達と長くつきあう能力がないので
    想像の粋を超えています。
    私の知らない世界。。。
    きっとSILVER7さんにとって
    とっても大切な方だったんだろうなぁ。
    セピア色になるんでしょうか?
    私の中でもう会えない友達は色鮮やかです。。。


引用返信 削除キー/
■5352 / inTopicNo.3)  Re[2]: 友人が、亡くなりました
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2006/11/02(Thu) 23:27:33)
    No5350に返信(いろはさんの記事)
     いろはさん、昨日、納棺から骨拾い、初七日のおときまで済ませて、帰ってきました。
     棺のなかの顔も見たくなかったし、焼けてしまって骨になった彼も見たくなかった。

     ああいう場所へ行くと、一所懸命適応しょうとするので、かなりくたびれます。
     過剰適応反応が思わず出るところがあります。
     また、社会性(常識)に欠けるところがあって、その面での軋轢(あつれき)も体験することになります。 昨日も、おときの人数には私は入っていなかったのですが、押しかけで焼き場まで行き、おときにも加えてもらうことになったのでした。 早いうちに、あらかじめ申し込んでおいたらよかったのですが、そこらへんの手配というところが、まだ、私の頭には入っていませんでした。 ごくごく親しくしている間柄でしたから、気を利かせてもらいましたが、焼き場に現れた私を見て、喪主になられた奥さんは、内心あわてられただろうと、思います。

     今日は、大方、家でごろごろしていました。

     50年を超える付き合い、そうですね。 でもね、実際に双方向になったのは、この10年か15年かのことですね。
     私も、この友人にも、私のほんとうの気持ちは、長いあいだ言うことができませんでした。 もっぱら聞き役だったんですね。 しかし、彼にとっては、この、受けてくれる人間がいるということが、貴重だったようです。
     私には、幸か不幸か、いわゆる社会的な常識の枠にとらわれることも、ほとんどなかったですから、彼の物事を裏っかわからや、思いがけない見方をすることを、一所懸命わかろうとしましたから、彼にとっては、なくてはならない人間だったようです。
     内側に秘めていた自分の気持ちのところを、言っても大丈夫かもしれないとしゃべり始めたのが、15年前ぐらいのことです。 それまでの35年間ぐらいは、ただただ、私は付き合っていたのです。 彼のほうは、喰らいつくように、私に話していたのですが、私は、「なんで、この人間の話を聞かなければいけないんだ?」と、苦痛に感じていたことも多かったのです。

     本当のことを話し始めてから、次第にわかってきたことなんですが、彼のお母さんも、問題を持った人で、彼は嫌っていました。
     ACの話を、包み隠さず話すようになって(私も、ちょうど、自分の共依存を自覚して、自分のために生きることを始めたこともあって)、私の見解にもうなずいてくれることが多くなりました。 世間的にも、いじめや虐待、少年犯罪や、幼児や児童が犠牲になることも多くなりましたから、彼は、それらの一つ一つに強い関心を持っていましたから、それらの事を、どう見るかということは、二人のあいだでの中心的な話題でもありました。

     彼はいなくなったのですが、彼と話したときのように、世のなかのことに、どう向き合うかということが、残された私に問われていることなんだな、と、今日、思ったところでした。

     今日、思いっきりごろごろしたおかげで、つらく悲しいだけの気持ちからは、抜けることができるかもしれません。

     いろはさん、彼のほかには、あれほど包み隠さず話した人間はいないのです。 そのことのほうが、これから、つらく思われるだろうと、思います・・・・・・。

引用返信 削除キー/
■5353 / inTopicNo.4)  Re[3]: 友人が、亡くなりました
□投稿者/ いろは -(2006/11/03(Fri) 06:50:06)
    いつも思うんですけれど、亡くなってしまったことで
    とってもショックを受けてしまっているのに、
    さらに傷口に塩をすりこむような作業があるのだろう。。。
    たった、何日かの間にめまぐるしく行われる儀式に
    こころってついていくのかなぁって。。。

    そんなに長い時間をかけて
    いろいろとお話をされてきたんですね。
    自分のことを包み隠さず話せる人って
    なかなかめぐり合えるものではないですよね。
    本当に本当に大切な方だったんだろうなぁ。。。
引用返信 削除キー/
■5354 / inTopicNo.5)  Re[1]: 友人が、亡くなりました
□投稿者/ けしき -(2006/11/03(Fri) 10:04:29)
    亡くなった友はソウルメイト(魂の友)肉体は滅びても
    魂の絆は永遠です、100年先 、或いは1000年先
    形を変え、また廻り逢えるかもしれません。
引用返信 削除キー/
■5357 / inTopicNo.6)  Re[2]: 新しい一歩を
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2006/11/04(Sat) 21:51:47)
    No5354に返信(けしきさんの記事)
     けしきさん、いろはさん、ありがとうございます。

     私は、次の一歩へ、踏み出しています。
     現実的にも、落ち込んでいる暇がないのです。 と、言うのも、今、わがおふくろが、夏の終わり以来の帯状疱疹の後遺症というか、治りが悪くて、痛みが四六時中あるんです。 それで、胸を押さえて(押さえておくと、痛みを感じないことがあるらしいです)1日中何もしませんので、私が食事の世話をしなきゃならないんです。
     ですから、葬儀から帰った晩も、とりあえず夕食をこしらえて食卓に並べました。 さすがに、洗うのは放棄して、あくる朝洗いましたが・・・・・。

     おふくろは、私のACの元凶で、また、私が共依存していた相手ですが、私は、可能なことはしています。 「可能な」というのが味噌です。 「できない」ことはしないと、いうことです。

     この人が、人間らしく、人を尊重することは、よっぽど変化しない限り無いことですから、私は、一切幻想は持たず、人間的な心の交流の下に、つまり愛情を持って(!)やっていると、いうわけではないのです。
     同じ屋根の下にいる同居人ですから、手の届かないところのものを取ったりするのと同じ位置づけで、「できる」ことをやっているのです。
     それどころか、相変わらず、一方的な要求を何の疑問もなく提起してきますから、そういう時は、バンと、撥ね返します。 つまり、拒否します。
     
     つまり、一方で食事をこしらえ、他方、必要なときには、手を払いのけるのです。
     外に聞こえようが、玄関先だろうが、まったく遠慮しません。 向こうが無遠慮極まるわけですから、なんで、こちらがコソコソすることがあるでしょうか。

     おふくろは年寄りですし、近所のお年寄りからも一定親近感を持たれてもいるのですが、私は私で、その同じ近所の人と、特に考えもせずに普通に話し、接しています。 以前の、近所の目をはばかっていたときよりも、うんと、ざっくばらんに話しています。

     と、言うことで、世間的に見たら、ごくごく不十分にしか動いていないのですが、私的にはかなり活発に動いている(!)ので、また、いろはさんへのレスにも書きましたが、彼と過ごした時間のつづきを引き継いでいくことが、私の役割だということがわかって、私は、グッと、舵をまっすぐ据えて、前進の「出発進行」へ、ギアを切り替えることができました。

     その辺の思いを詩にしましたので、載せておきます。


         私は 見つめていく

     落ち込んでいては 世の中わからなくなる

     彼が一生懸命話したのは
     世の中のことを どう見るか
     どう向き合うか だった

     彼がいなくなった今 二人で作っていたあの時間は何だったのかと
     一人の私が 思わせられた

     難しいことではなかった
     二人のあの濃密な時間が
     すぐに 私のやるべきことを 教えてくれた

     悲しみに打ちのめされるよりも はるかにさわやかに また、屈託なく
     新しい一歩へと
     踏み出すことができた

     私は
     彼といたときと同じように
     世の中を 見つめていく


                                    ('06.11.03)

引用返信 削除キー/



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