1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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■3459 / inTopicNo.1)  小学生時代のインナーチャイルド
  
□投稿者/ ハコ男 -(2005/05/15(Sun) 13:53:50)
    久々に書き込みます。

    私はACに気付いてからずっとジョンブラッドショー著の「インナーチャイルド」を軸に自分のAC問題に取り組んでいたのですが、最近久々に読み返し、今の自分と照らし合わせてみて、自分の小学生時代のインナーチャイルドが癒えてない。ここ1年半ACとしては随分改善があったのに、他人と親しくなるのには相変わらず抵抗があること、劣等感・競争意識が強くて他人と比べてばかりいることが、この本の学童時代のインナーチャイルドの特徴とぴったり合うのです。

    自分は今まで6歳より前の自分の過去、インナーチャイルドに焦点を当ててきて、他人の視線なんかもあまり気にならず摂食障害も直り、親しくない対人関係であればかなり楽になったのでそれと同じように小学生時代の自分とも向き合えばいいのですが

    小学生時代のインナーチャイルドと向き合うのが難しくて戸惑ってます。理由としては
    @小学生以前の自分の記憶はほとんどないけど、小学生時代の自分は自分でも良く知っている。
    A幼児期のインナーチャイルドであれば、ただ抱きしめてあげればそれで良かったけど、小学生になると抱きしめる年齢でもないし、理屈のあることをしゃべるので対話しなくてはいけない。
    などから向き合うのがすごく難しく感じます。

    ちなみに小学生時代の自分は殺伐とした怒りの感情の渦巻く家庭で、思考も感情も停止させてやり過ごしてきた感じで、学校では道化役になり、家で得られない注目をクラスメートから得ようとしていました。

    小学生以降のインナーチャイルドと向き合った事のある人、そういう経験のある人いませんでしょうか?
引用返信 削除キー/
■3495 / inTopicNo.2)  Re[1]: 小学生時代のインナーチャイルド
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2005/05/21(Sat) 14:04:32)
    2005/05/21(Sat) 23:27:19 編集(投稿者)
    2005/05/21(Sat) 21:10:42 編集(投稿者)
    2005/05/21(Sat) 20:32:07 編集(投稿者)
    2005/05/21(Sat) 20:22:11 編集(投稿者)
    2005/05/21(Sat) 19:00:24 編集(投稿者)
    2005/05/21(Sat) 15:06:43 編集(投稿者)

    No3459に返信(ハコ男さんの記事)
     ハコ男さん、遅レスです。
     小学生時代のというのとは違うのですが、記憶にあるときのというところで、共通するところがあるように思いますので、書いてみます。(ですから、参考までにということで、読んでください。)

     実は、現に、今、取っ組んでいる最中でもあるんです。

     自分のやってきたことは、取り返しようのない形で、厳に存在するんですよね。
     その過程、過程での、自分の偽らざる心というか、ほんとうは在りたかった姿というのは、はるか彼方に押しやられていて、思い出すこともままならないところがあります。(もちろん、直近を含む最近のものも、あるのですが………)

     一方で、現在に必要な姿というか(ここでだいじなのは、それは、「かくあらねばならない」と、外側から、強迫観念によって求められるものではないと、いうことですが………)、自分の「希望」していく自分の姿(それも、夢物語ではなくて、現在の状況のなかに、自分で噛み合わせようとする)を、生み出しながらという、まことに複雑な、交通整理を上手にやらなければならない作業を、実は、今しているところなんですが………………。

     いや、思わず書きましたが、いろんな回復を、現在只今、生活しながらやらなければならないというところが、難しいことですね。

     もう少し、本題に近づけると………、ハコ男さんが言われるのは、書き換えてみると、
     1、小学生時代のインナーチャイルドの問題が、解決されていない。
     2、その、インナーチャイルドとの付き合い方がわからない。
     と、いうことみたいですね。

     1のところでは、具体的に、二つのことが書いてありますね。 私は、ブラッドショーの本は読んでいないんですが、この二つのことは、根が深いように思いますね。
     私が、ずーーーっと、取り組んできた課題でもあります。
     でも、そもそもの最初は、本来の求めていたものが充たされなかったことから始まっているのではないでしょうか? (だから、インナーチャイルドが、そのまま居るんだ………)
     だから、あとの、もろもろの問題点は後回しにして、何とかして、インナーチャイルドの願いを叶えてやらなくちゃならないんじゃないでしょうか?

     私は、「正直に、正直に」と、自分に言い聞かせて、又、実際にそのようにして、力を抜いて、「何にもしたくないとき」は何にもしない、寝たいときに寝るという風にして、2年間ぐらいを過ごしたこともあります。
     この「自分に正直に」というのは、今でも、私の基調です。

     が、そうであっても、長い間、どこから来るのか「かくあらねばならない」という「あるべき姿」と、現実の私との葛藤に、苦しみつづけました。………………
     一方で、正直に、自分の気持に正直になりますので、解離は無くなっていくのですが………、しかし、ほんとうには満たされていないというか叶えられていない、ハコ男さんが、幼いインナーチャイルドは抱きしめてやればよかったけどということを書いておられますが、同じように(私の場合はいつごろのことか、いや〜〜、思い出すまでもなく、まさしく小学生の時ですね、私が得られなかった、その時というのは………………)、「抱きしめられる」ことの無かった、「掬(すく)い取られる」ことの無かった気持が、ずーーーーっとあるものだから、いつも、どこかに、ブラックホールに吸い寄せられるような、「絶対的孤独感」のようなものが、つきまとっていましたね。

     私の場合は、その「孤独感」が取れたのは、共依存を自覚して、叶えてほしかった対象であった母親に期待することを、一切終りにしたことからでしたね。
     で、同時に、外側から自分を見て迫ってくる「強迫観念」からも、解き放たれましたね。
     そしてまた、同時に、あの、「世の高みから」自分を見て比べる「劣等感」、あの気持の悪い、「弱さ」を感じさせる「劣等感」からも、解放されました。
     (断っておきますが、もちろん、いろんな場面における力の違いや、センスの強弱みたいな、「違い」や「差」はありますし、それを、まざまざと感じることは多いいですよ。 しかし、それらは、あくまで「差」であって、あの、自分に「弱小感」を感じさせる「劣等感」ではないんです。)

     箍(たが)は取れました。
     しかし、今度は、自分で、自分の姿を創っていかなければいけません。
     私は2年半ぐらい、解き放たれた自分自身をいたわってきましたが、去年の夏ごろから、自分づくりが始まっています。 今年の1月過ぎぐらいから、ターゲットが絞られてきて、より意識的になってきています。
     かつての強迫観念ではなくて、しかし、自己にいろんな働きかけをしていくのですから、混同しないように見極めがだいじですし、又、その創っていく自分の姿は、部分的あるいは一時的なものではなくて、トータルされ、継続されたものでなければならないとも、思っています。

     そんなことやなんかも、やったことがないわけですから、自問自答しながらやっているところです。

     と、いう具合で、心ならずも一度辿った人生を、心有るものにするのは、たいへんです。
     特に、叶えられていないインナーチャイルドの声を聴き取っていくのは、たいへんだと、思います。
     インナーチャイルド、もしかしたら、いろいろなことを言ったりしているのかもしれませんが、現象ではなくて、その心を聴くことかもしれませんね。


     長くなりましたが、何か、役に立つことがありましたでしょうか、やたらとわかりにくい表現にもなっていると思うんですが…………?

引用返信 削除キー/
■3499 / inTopicNo.3)  Re[2]: 小学生時代のインナーチャイルド
□投稿者/ ハコ男 -(2005/05/22(Sun) 12:00:56)
    No3495に返信(SILVER7さんの記事)
    返信ありがとうございます。

    後で読み返してみると、相談ではなくて共感を求める愚痴っぽくなってしまっていて反省してます。

    >  が、そうであっても、長い間、どこから来るのか「かくあらねばならない」という「あるべき姿」と、現実の私との葛藤に、苦しみつづけました。………………
    >  一方で、正直に、自分の気持に正直になりますので、解離は無くなっていくのですが………、しかし、ほんとうには満たされていないというか叶えられていない、ハコ男さんが、幼いインナーチャイルドは抱きしめてやればよかったけどということを書いておられますが、同じように(私の場合はいつごろのことか、いや〜〜、思い出すまでもなく、まさしく小学生の時ですね、私が得られなかった、その時というのは………………)、「抱きしめられる」ことの無かった、「掬(すく)い取られる」ことの無かった気持が、ずーーーーっとあるものだから、いつも、どこかに、ブラックホールに吸い寄せられるような、「絶対的孤独感」のようなものが、つきまとっていましたね。
    >
    >  私の場合は、その「孤独感」が取れたのは、共依存を自覚して、叶えてほしかった対象であった母親に期待することを、一切終りにしたことからでしたね。
    >  で、同時に、外側から自分を見て迫ってくる「強迫観念」からも、解き放たれましたね。
    >  そしてまた、同時に、あの、「世の高みから」自分を見て比べる「劣等感」、あの気持の悪い、「弱さ」を感じさせる「劣等感」からも、解放されました。
    >  (断っておきますが、もちろん、いろんな場面における力の違いや、センスの強弱みたいな、「違い」や「差」はありますし、それを、まざまざと感じることは多いいですよ。 しかし、それらは、あくまで「差」であって、あの、自分に「弱小感」を感じさせる「劣等感」ではないんです。)
    >
    気付いたのですが
    私はちょっと小学生くらいになったら、もう親に甘えるのは恥ずかしいと思ってたのかもしれません。
    うちの母は書いたとおり殺伐とした怒りを抱えた人でもあったけど、
    一方で自分の都合で溺愛したり、世間体のいい親を演じたりするので、
    私は親に甘えられなかった自覚が乏しかったんだと思います。
    つまり溺愛というのはむしろ甘えられてたのであって、私は真に甘えたことがないんだと思います。

    私は小学生時代とにかく自分の欲求、感情を抑えていたのでそっちにばかり気を取られていたかもしれません。
    そして道化役、世話役になっていた自分を後悔したり、責めたり・・

    でも幼児期であれ小学生時代であれ思春期であっても
    やっぱり親には甘えたい、甘えたいというかこちらの欲求を汲み取って欲しい。
    そう思うことは恥ずかしいことではないですよね。
    小学生でだっこされるのは恥ずかしいけど、学校の話を聞いてもらうとか、自分のしたいことを助けてもらう。
    そういう経験が私に必要だったのだと思います。

    おかげで気付けました。ありがとうございます。

引用返信 削除キー/
■3530 / inTopicNo.4)  Re[2]: 小学生時代のインナーチャイルド
□投稿者/ ころりん [MAIL] -(2005/05/31(Tue) 09:08:53)
    ハコ男さんとsilver7さんへ

    インナーチャイルドとのお付き合いは、私もライフワークと言ってよいほど、人生の中で長い大切なテーマです。記事を書かれてからしばらく時間がたっていますが、ハコ男さんの小学生クンは、その後いかがですか?

    以前50歳以上の方々専用のページで、silver7さんが書かれていて全く同感だったのですが、自分がACであることに気づいたとき、同時に、誰にも影響を与えたり受けたりしていない、生れ落ちたばかりの赤ちゃんのような自分をも発見されたと。私はそれは、ステキな感覚だな、と思いました。

    大人でありながら、インナーチャイルドを抱える。それは大きなとまどいもあるのですが、年々顔に皺が増え、周りでも知り合いが亡くなっていくなど、段々と死に近い歳になってみますと、とても不思議なんですけど、
    「そうかー、そんなみずみずしい可愛いものがまだ自分の中にあるのかー。」と、
    その手に負えないヤンチャ坊主に困惑しながらも、なぜか愛しく思えたりしてしまいます。
    親のない、しかし、夢と才能をたくさん内包した魅力的な子供と同居している大人、それはちょうど赤毛のアンのマニラとマシューのような気持ちでしょうか。

    私の中にはいまだに、ゼロ歳から思春期までの、さまざまな年代の子供が存在していて、生活の折々に、ひょっこり顔を出しますので、その地層のような自分の内宇宙には、まったく驚かされてしまいます。(退屈しないです。)
    小学ころりんにインタビューしてみると、この子はとにかく小学生のままですから、「自分は何にだってなれる。誰がどんなに否定しても、環境がひどくても、必ずなりたい自分になる。そうじゃなければ、生きていたくなんかない。一秒だって、人の思うままにされるのは、嫌だ。」そう豪語しております。

    それで現在の大人の私は、人生や仕事でピンチに出会ったとき、度々この子供のエネルギーに支えられています。
    この無謀なドン・キホーテのような向こう見ずなエネルギーは、実際の小学生のときには押さえ込まれていたわけですから、今、自分が許可を与えてあげさえすれば、小学生並みのパワーが、ムクムク・わくわくと身体に湧き上がって来ます。
    それはまったく、マジカルで尽きない、信頼できる力です。

    私の場合、自分のインナーチャイルドの、ポジティヴな面を素直に認めることのほうが、なぜかとても難しかったです。非常に時間がかかりました。
    「わがままだ、無力だ、協調性がない、持続力がない、やせっぽち、」そんな風に周りから言われていたことは簡単に信じ込んで疑わなかったのに、
    この子が持っている素晴らしいところを信じてあげるまでには、
    本当に長い旅がありました。そして今ももちろんその途中です。

    私の場合は、二つのことに助けられました。
    それは、「自分がこんなにどうしようもない苦しさや寂しさを感じるということは、そうでなかったときの状態を、魂が知っていに違いない。そうでなければこの状態に、違和感すら感じないだろう。私は絶対にそれを思い出したい。」という感覚を持ち続けていたことと、もうひとつは、かけがえのない人たちとの出会いです。

    機能不全な家庭のサンプルは、もう十分に見た。反面教師はもういらない。今度は
    私の魂が望むものを、この地上に、小さくても時間がかかってもいいから、作っていくんだ、そのためには今生の全部を賭けてもいい。この子を救うのは、私にしかできない。なぜならこの子の声は、私にしか聞こえないからです。

    迷いながら、傷つきながら、
    落ち込みながら、人に迷惑をかけながら、
    失敗しながら、泣きながら、
    でも私はこの子を愛しています。
    かつて自分が親にして欲しかったこと。
    望んでも望んでも手に入らなかったモノ。

    さて、人生の残り時間が刻々と減っていく中、
    どれくらい機能不全の連鎖を解けるか分かりませんが、
    自分というものは、人類のひとつの実験室だと思っています。
    とりあえず自分の精一杯のところまで取り組んでおけば、
    あとは後の世代が引き継いでくれるんじゃないでしょうか。

    なんだか独り言になってしまいました。
    でもお二人の文章を読んでいたら熱いものが込み上げてしまいました。
    なんの返事にもならなかったですけど・・・。
    この間、自分の鬱を認めてこのサイトに出会い、
    そのあとsilvber7さんにお返事をいただいたら、
    不思議としばらく停滞していたものから抜けて、
    また少し自分の状態が見渡せました。
    こういうのって、よいものですね。

    人生って、不思議だなあ・・・。


    ころりん
引用返信 削除キー/
■3536 / inTopicNo.5)  Re[3]: 小学生時代のインナーチャイルド
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2005/06/02(Thu) 12:53:16)
    No3530に返信(ころりんさんの記事)
     ころりんさん、いい文章を、ありがとうございます。

     一番最後の、「人生って、不思議だなあ…」、いいですね。

     なんか、青い空に向かって言っているような感じですね。

     「実験室」という考えにも、賛成ですね。
     ある意味、人生だけでなく、歴史も、「実験室」かもしれませんね。
     他の人と同じように、実験を重ねてこの航路を辿っているのではないでしょうか?

     そうです、この人生にも、意味があるんです。
     別の言い方をすれば、「この作品を、私は創っている」と、言えないでしょうか?

     ちょうど、彫刻家のように、塑像を、粘土をはがしたりくっつけたり、削ぎ落としたり、滑らかにしたりしているのではないでしょうか?
     石像だって、削りすぎたところを、全体を見回して、新しい視点で彫り直したり、あるいは、又、初めからやり直したり、しているんじゃないでしょうか?

     その、悪戦苦闘に、値打ちがあるように思います。
     もしかしたら、たいへんな自己弁護かもしれないけど、だけど、私たちは、その過程が複雑で、他の人に比べてややこしいのかもしれないけど、他の人だって同じように、それぞれの後姿に人生をにじませて生きているんではないでしょうか?!


     何千年という歴史の中では(文明史の範囲ですが………)ほとんどの人が、何ほどのこともなく人生を終わるんですよね。
     しかし、されどです、同時に、その砂粒のような一人一人の歩みが無ければ、あるいは作業が無ければ、歴史にならないんですよね。

     平安時代の、京の街の通りを歩いていた一人の人間と同じように、又、ギリシャのどこかとどこかが戦争していて、その軍船の漕ぎ手であった一人の人間と同じように、私も、今という時代を創っている一人の構成員なんですよね。

     ころりんさんの小学生のインナーチャイルドじゃあありませんが、なんか、わくわくしますね。
     そう、時代や、世間が主人公なんではなくて、「私が、主人公!」ですよね!!!

     そんな風に考えると、「創り直し」って、なかなか、いいですね。
引用返信 削除キー/
■3537 / inTopicNo.6)  Re[4]: みなさん、素敵ですね。
□投稿者/ だりあ -(2005/06/02(Thu) 14:04:24)
    そうですね、人生は正に実験室!すごく素敵な言葉ですね。
    そして、その事がわからないまま、人生を終えてしまう人々もいるのですね。

    そう思うと、私は子供の頃は親に合わせた自分と自分の中の自分自身が居ました。

    そして、ひとりで暮らしはじめ、一生懸命だった自分には余裕がなく、自分の中の
    私はどこかに隠れていました。

    今はまた、その私と出逢い、悪戦苦闘しながらも肯定してあげる、という作業をしています。
    ACにも関わらず、私は本当の私がなぜだか判っていましたから、親が出来なかった事、求め続けている事を今、書き出して、次のステップで自分自身を甘やかしてあげようと思っています。

    きっと、私達は辛いけれども、紛れもない自分自身が出来上がる事でしょうね。
    作業中ではありますが、実験って思うと心が軽くなります。

引用返信 削除キー/
■3546 / inTopicNo.7)  silver7さんと、だりあさんへ
□投稿者/ ころりん [MAIL] -(2005/06/06(Mon) 00:04:58)
    返信ありがとうございます。実験室仲間が3人になって、とっても心強いです。
    今日の実験結果は、いかがですか?

    今夜はとてもよく晴れたので、天体望遠鏡を担いで山の上に行き、
    木星を探しました。
    肉眼では観えない星屑が、空いっぱいに振り撒かれて、
    何万光年の彼方からの光に、どこまでも吸い込まれそうでした。

    そしてもし輪廻転生というものがあるなら、
    平安時代のある夜も、ギリシャの航海の途中にも、
    やっぱりこうして星を観た日があるにちがいないと想像しました。

    silver7さんの部屋の窓からは、星がまたたいていますか?


    だりあさん、私も自分を「甘やかして」あげるのが大好きです!
    「何をして欲しい?」「どこに行こうか?」「今、何を感じてる?」
    そう聞いてあげると、心が温かくなります。

    寸暇を惜しんで、甘えさせてあげましょう〜ネ(笑)


    え〜っと、今、何をしてほしいのか、聞いてみました。

    お二人にハグを、とのことです!

    良い夢をご覧くださいませね。


    ころりん

引用返信 削除キー/



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