1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
(現在 過去ログ20 を表示中)

HOME HELP 新規作成 新着記事 トピック表示 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■3297 / inTopicNo.1)  過去との関係
  
□投稿者/ るあん -(2005/04/24(Sun) 11:27:58)
    過去を克服し現在を生きるためにせねばならない、インナーペアレントを断ち切りインナーチャイルドを抱きしめるという二つの作業。前者が過去を否定することならば、後者は過去を肯定すること。私には、時として、この二つの作業がどうしようもなく相互排他的に思えてなりません。二つを同時進行しようとする度に、自己内矛盾に耐えられなくなり、過去の完全肯定か完全否定かの二者択一を自らに迫ってしまいます。そして、いずれかを選択することなど不可能であること、また、どちらに傾いたところで、同じような結論――自分を消してしまいたいという願望――に至ることを悟り、絶望的になってしまうのです。

    私という人間は、元を辿れば、物理的にも精神的にも親が作ったものに過ぎないのであり、ありのままの自分などいないように思います。子供の頃に親によって否定された私という存在、それを肯定してあげようと、自分の歴史を遡ってみますが、何を肯定すべきなのかが分からなくなります。親によって歪められた私を自由にしてあげようと、本当の自分を探し回ってみても、親の作為から完全に独立した自分など見当たらないのです。つまるところ、私という存在の根源にあるのは無でしかないのだから。

    始めに私ありきではなく、始めに無ありきならば、何を拠り所に自分の過去を、そして自分という人間を肯定していけばよいのでしょう?私の過去の何をとっても、毒親に汚染されているものにしか見えない。彼等のしたことを肯定することなどできない。彼等が作り上げた私も肯定できない。だから、私は全てを否定する方向へと傾いてゆくのです。私を消してしまいたいと願った親を否定し、そんな親の思いを内在化してしまった自分を否定する。そうすれば、私は無になれる。

    その完全否定の可能性は、時に私に希望を与えます。自分の過去の一切を否定して、原初状態であるところの無を取り戻し、新たに自分を作り上げていくことができたら、自己肯定の感が沸いてくるかもしれない。例えば、親と絶縁し、私が生まれたときには既に私と共にあった私の名前、性別、国籍等を変えるという行為をすれば、そういう行為をとった自分を愛してゆけるのではないか。そもそも、今の私には、それら生得条件の全てがいまいましくて仕方がない。だから、できる限り破壊したい…。

    けれども、その破壊願望はとどまるところを知らないでしょう。毒親を自分から断ち切る努力をしているうちに、自分自身をも切り刻むようになり、結局は自己破壊に至るように思います。そもそも、私は、自分を変えるために過去を破壊し、将来のために生きるということをずっとやってきましたが、そんな生き方はもう破綻してしまいました。それは、ひとつの自己否定であり、ある程度までは前進のための機動力たりえますが、自分という存在を根本的なレベルで肯定することにはつながりませんでした。何をしたって、自分の存在が許せないのであれば、何もする気になれないのです。かといって、私の過去は、肯定するにはあまりに毒親の影が強く、過去の肯定はすなわち自己の否定となりかねません。

    私という存在は過去によって作られ、その過去とは私という存在の否定である場合、過去を否定しても肯定しても、自分の人生を生きるという道が開かれないような気がしてなりません。過去を忘却して、前のみを向いて生けたらいいのに。昔はそんなこともできたかもしれませんが、今の私には過去が重くのしかかります。生きていることへの罪悪感を克服しない限り、もうこれ以上生きてはいけない。そのために、過去とどう関わっていったらいいのか、肯定も否定も必要ならばその二つをどうやって共存させるのか、それとも肯定でも否定でもない第三の道があるのか、そんな答えの出ない疑問を頭の中で堂々巡りさせている昨今の私です。

    どなたかご意見がありましたら、聞かせてください。

引用返信 削除キー/
■3298 / inTopicNo.2)  Re[1]: 過去との関係
□投稿者/ はにゃ〜ん -(2005/04/24(Sun) 15:32:57)
    左か右か、黒か白では無いんですよね。そこまで自分のことを分析できているならば、
    今の るあんさん にフックする言葉を投げかけるというのは、ちょっと難しいかも・・。
    深く掘り下げれば掘り下げるほど、自分にあった着地点というのが狭まってしまって、
    なかなか適切な答えというのは導き出せないんですよね。

    否定という心の壁を積み上げても、分厚すぎてもいけないし、薄すぎてもいけないし・・。

    るあんさん にとっての第三の道というのも、それは知識と経験を積み重ねることで
    切り開かれる道だと思うので、今は堂々巡りになるのは仕方が無いことだと思う。

    要は入出力のバランス。強引な言い方だけど、”無いものは出ない”それだけだと思う。
    無ければ外から取り込んで、自分の中でこねくり回して、その中から るあんさん に合った
    新しい答えが生まれるんだと思う。

    ちょっと抽象的で投げやりな意見だけど、自分は今までそうしてきた。答えが出ないときは、
    時間を置いてその間に傷ついたり喜んだり。。外界からの色んな刺激が、新たな答えを生む。
    そんな感じ。。

    今の るあんさん がこうして色んな言葉を使って自分の意思を伝えられるのも、
    今まで色んな物事を入力してきたからこそでしょ?

    だったら、これから先も同じようなことをするしか無いと思う。
    とりあえず、これが るあんさん に言える自分の答えです。

引用返信 削除キー/
■3299 / inTopicNo.3)  Re[1]: るあんさんへ
□投稿者/ 花梨 -(2005/04/24(Sun) 21:21:29)
    はじめまして。花梨といいます。よろしくね。

    とても聡明なかたなのでしょうね。
    よく考えていらっしゃるみたいで、そこまで考えてるかたに
    あたしが何を言っても・・・とも思ってみたりしたのですが
    あたしの意見です。ちょっと読んでみてね。

    過去は消えないですよね。
    どうすることもできないのですよね。
    それは、機能不全家族に育っても健全な家族に育っても同じでしょ?
    時間は残酷なくらい、平等に流れていくのですから。

    未来はどうでしょう。
    誰にもわからないですよね。
    未来は、るあんさんがデザインできるものですよ。
    そう思ってみてもだめでしょうか。

    過去、現在、未来、繋がったものですけれど
    変えられるのは現在と未来だけ。

    だからあたしは、未来はあたしのもの、と思ってます。
    未来のあたしが、過去を振り返って、よかったね、って言ってくれたら嬉しい。

    今日だって
    明日だって
    昨日になる

    と、友人は書いていました。
    だから前に進むしかないのです。

    母親としてのあたしから・・・
    無って言われると悲しいですね。
    よくいう十月十日、お腹で少しずつ形になっていったあなた。
    人間に育っていったあなたがいるのに。
    親は選べないから悲しいですよね。
    でもね、流産していく命もあります。
    生まれてこなきゃよかったってあたしも思ったことがあります。
    それでも今は、よかったと思います。
    るあんさんは今いることが尊いですよ。

    それでも人生にイエスという、という本をご存知ですか?
    ナチスの強制収容所から生還した心理学者の書いた本です。
    何かのお役にたてるかもしれません。ご参考までに・・・

引用返信 削除キー/
■3300 / inTopicNo.4)  Re[1]: 過去との関係
□投稿者/ じじ -(2005/04/24(Sun) 22:21:14)
    2005/04/24(Sun) 22:32:27 編集(投稿者)

    るあんさん はじめまして。

    ぼくの思った事をかきます。
    るあんさんの書いたこと、理解できます。
    るあんさんのように理路整然とではないにせよ、同じ事を考えていました
    (今も考えています)。

    ぼくも過去を破壊した事あります。見ないことにして、無かったことにして。
    小学校の卒業アルバムだったと思うけど、中学くらいの時に捨てちゃいました。
    でも、何もよくならなかった。
    高校も大学も、“今”つまり“過去”を作らないように過ごしてきました。

    るあんさんの書いていない、恐らく考慮に入れていないものがあると思います。
    ――たった今の感情。

    過去にも、未来にも、自分の考えにも束縛されない、今の感情。
    今、この瞬間の気持ちは、るあんさんの脳の中の化学変化の結果。
    脳のある位置つまり緯度経度、標高すべてが人それぞれ固有のものです。
    あれがいや、これが欲しい、嬉しい悲しい、それにあれと、これと………
    そういうたった今の感情や欲求こそが存在なんじゃないかな、と思います。
    それが全てという訳ではないだろうけど。

    でも、だから、どうすれば良いのか、分らないです。

    じじ
引用返信 削除キー/
■3301 / inTopicNo.5)  Re[1]: 過去との関係
□投稿者/ こくーん -(2005/04/25(Mon) 00:04:05)
    No3297に返信(るあんさんの記事)
    るあんさん、はじめまして。
    るあんさんの書かれたことを正確に消化しているかどうかはやや不安なのですが、今私の心の中にどん、と居座っている空虚感、その原因に、るあんさんが書かれていることというのは、似ているのかも…と思いました。
    私の現状と、希望と、もしかしたら、理想と、ごちゃまぜになるかもしれないですが、書かせていただきますね。

    『否定』と『肯定』が二律相反の関係にあるのならば、私は『肯定』を取りたい、と、今は思っています。

    『肯定』と言っても、『良かった』とすることではなく、『良し悪し』抜きにして、『それはあったことだ』とあるがままの事実として、受け入れる。そういう意味での肯定。過去に対しても、今の自分に対しても。

    長い間、こんな風に思ってました。
    『私の前に道は無く、私の後ろには闇ばかり』だと。
    長い間熱心に培ってしまった『否定癖』は簡単には私を手放してくれません。鏡を見ても、何をしても、自分はダメだと思う。壊れていると思う。消えてしまえ、と思う。条件反射に近いものがあります。どうしてそうなったのか、そう考えれば考えるほど『それは自分の事実だからだ』と念入りに心に刻み込まれます。

    それでも今は、肯定を繰り返します。
    私は今、ココにいて、生きている。死ぬときが来るまでは生き続ける。
    そうであるならば、肯定をすることが自分には必要だと思うのです。少なくとも自分が自分にしてあげられることは、肯定することなのだ、と今は思います。

    正直、なかなかうまくいかなくて、苦しいです。今、とても空虚な感じなのですが、その原因はコレのような気がします。『過去』も『家族との繋がり』『自分』も、なかったことにしてしまいたい。
    でも、できないから。それはあった、ともう認めるしか道はない…というのも本当かもしれません。
    とりあえず、今に焦点を当てて、自己肯定の作業をします。
    過去から見ていくと、もう手の付けられない過去から現在を否定してしまうような気がします。もしかしたら、現在を肯定することに成功すれば、過去の認識は多少なりとも変わるかもしれないから。

    言い切ることは怖いけれど、自戒と祈りも込めて、勇気を出して書きますね。
    『私は「肯定」を選択します』

    るあんさんの書かれたことと、趣旨がずれていたらごめんなさい。

引用返信 削除キー/
■3302 / inTopicNo.6)  Re[1]: たとえば
□投稿者/ 冬子 -(2005/04/25(Mon) 05:39:06)
    はじめまして、冬子と申します。

    二つの作業、なぜ同時進行で進めなくてはと考えられたのでしょうか?
    まず、@の作業をし、次いでAの作業をしではいけないわけでしょうか?
    同時には成り立ち得ない作業としても、順次進行に従ってではいけないわけでしょうか?
    どちらかを選択するではなくて、順次行わなくてはならない作業と考えておられるのに?

    親に作られた身体、親に刷り込まれた精神としましても、ご自身という存在は、いまあるままに否定のしようもないものだと思いますが?
    もちろん、自分を無と仮定してしまったなら、それらの面倒な作業など、どこぞへ片付けてしまえるという、ある意味の安定感もあるものでしょうが?

    なぜ、彼らを肯定しなければならないのか?
    そもそも自分を肯定する目的が、なぜ彼らの肯定となりえるのか?私には理解できないところなのですが?

    一家創立ということ、なさりたければなさってもよろしいいのでは?
    一日本人として、誰にも束縛されない、誰からも依存されない、独立した自己の創立ということ、当然可能な道だと思えますが?
    その為には、何も周囲の全てを破壊する必要も、ことさらないことなはずですが?
    ただ、「私はあなたと共存しない」「私は私としての独立を望む」と宣言すれば済むだけのこと。

    自分の時間線を、過去によってのみ認識しているとすれば、それは行き詰まり・破綻の未来しか描けないものかもしれませんが、時間というものは、過去にも未来にも延びているという意識、そのような部分で、第三の道というものを考えてみることはできないものでしょうか?
引用返信 削除キー/
■3303 / inTopicNo.7)  Re[2]: 過去との関係
□投稿者/ るあん -(2005/04/25(Mon) 09:04:15)
    はにゃ〜んさん、レスありがとうございます。

    > 左か右か、黒か白では無いんですよね。

    そうですね。私は、グレーゾーンにいて、これからもそうであり続けるよりない。人生も人間関係も矛盾に満ちていて、それを受け入れる勇気が必要ですね。いつでもどこでも、論理一貫性を追求してしまうと、ALL OR NOTHING的な姿勢になってしまいますから、何もできなくなる。もしくは、独裁的なやり方でしか物事を進められなくなる。

    > るあんさん にとっての第三の道というのも、それは知識と経験を積み重ねることで
    > 切り開かれる道だと思うので、今は堂々巡りになるのは仕方が無いことだと思う。

    あるいは、明確な解答など存在しないのかもしれません。知識や経験を重ねても、堂々巡りは続くのかも。それでも、生きていく。その覚悟はしたと思っています。

    ただ、生きているうちには、自分の姿勢を固めて決断をせねばならない時というのが何度か訪れるもので、私は今、その最中にいるように思います。そういった時に、否定でも肯定でもない、グレーゾーンに置かれていることを目の当たりにすると、バランスのとり方がよく分からなり、自分を見失いそうになる。それが怖い。ここで自分を見失うと自分の人生を人のせいにしてしまいそうで。

    > 要は入出力のバランス。強引な言い方だけど、”無いものは出ない”それだけだと思う。
    > 無ければ外から取り込んで、自分の中でこねくり回して、その中から るあんさん に合った
    > 新しい答えが生まれるんだと思う。

    決断のために、独り、自分と向き合うことも必要だけれど、それが煮詰まってしまえば、外界と触れ合う中で自分を見出していくことも大切ですね。はにゃ〜んさんとの交流、刺激になりました。ありがとう。

引用返信 削除キー/
■3304 / inTopicNo.8)  Re[2]: るあんさんへ
□投稿者/ るあん -(2005/04/25(Mon) 10:07:44)
    花梨さん、はじめまして。よろしくお願いします。

    過去は変えられないけれど、現在と未来は変えられる。それを信じることができるのはすばらしいと思います。そのためには、自分を信じると共に、すべてが自分の思い通りになるわけではないことを受け入れなければならないと思うのです。未来に起こりうる全ての事が私のコントロール下にあるわけではないから。これからの私がなし得ることは、私の意思だけで決まることでなく、私の出自、私がこれまでしてきたこと、周囲の人々の事情、社会の動きなどさまざまな要因の規制を受ける。

    そんな未来の不確実性を受け入れて、その上で自分の未来に責任を持つ。誰にも分からない未来に対して。そういう姿勢が理想的だと思うのですが、なかなか難しい。完全にコントロールできないのなら、いっそのこと手放してまおうかという思いがよぎるから。過去の重みと未来の不安に押しつぶされそうな現在を、時の流れという急流の中からつかみ出したい。そのために踏ん張って、もがいても、何もつかめない。あたかも、水が指の隙間から流れて落ちていくように、私の意思とは無関係に時が過ぎていく。

    けれども、私の意思の入る余地が全くないということはあり得ないですね。自分の意思の働く瞬間をつかむのには、踏ん張りすぎていてもいけないのかもしれません。

    > 母親としてのあたしから・・・
    > 無って言われると悲しいですね。

    無の状態から生まれてきたからこそ、何かを生み出していけるものでもあるのではないかなぁと思うときもあるのです。無は無限の可能性に向かって開かれているものだから。

    > 生まれてこなきゃよかったってあたしも思ったことがあります。
    > それでも今は、よかったと思います。
    > るあんさんは今いることが尊いですよ。

    ありがとうございます。私も、いつかそんな風に思える日が来ることを信じてゆきたいです。

引用返信 削除キー/
■3305 / inTopicNo.9)  Re[2]: 過去との関係
□投稿者/ るあん -(2005/04/25(Mon) 10:29:46)
    じじさん、はじめまして。こんにちは。

    過去は忘却の彼方に消そうとすればするほど、亡霊のように自分の心に付きまといますね。私は、随分前に、親と共に過ごした家を遠く離れましたが、過去は、物理的な距離を通して、かえって重みを増し、その記憶の整理を私に迫っているようです。

    > るあんさんの書いていない、恐らく考慮に入れていないものがあると思います。
    > ――たった今の感情。

    全くもってその通りです。私は、感情を素直に表現できる環境で育たなかったがゆえに、自分の感情が何であるかよく分からない人間になってしまったみたいです。だから、自分という存在が見えないような気がするのかもしれませんね。

    今は、自分の感じていることを、その都度、言葉にして、自分で認識するようにしています。いつか、他人の前でも自然に感情表現ができるようになりたいです。
引用返信 削除キー/
■3306 / inTopicNo.10)  Re[2]: 過去との関係
□投稿者/ るあん -(2005/04/25(Mon) 11:04:55)
    こくーんさん、こんにちは。はじめまして。

    > 『肯定』と言っても、『良かった』とすることではなく、『良し悪し』抜きにして、『それはあったことだ』とあるがままの事実として、受け入れる。そういう意味での肯定。過去に対しても、今の自分に対しても。

    こくーんさんのこの言葉のおかげで気づきました。私は、良い=肯定、悪い=否定という価値判断的な図式に縛られていたということに。自分を評価する前に受け入れること、感情をありのままに認識すること。それができるようにならねばならないですね。

    自分の存在や感情に良いも悪いもないとしたら、価値判断的な意味での肯定にも否定にも根拠はないですね。それなのに、良し悪しの二分法で自己評価をしようとするから、空回りをする。だから、空虚感が募る。

    自分を受け入れるも拒絶するも私の勝手なのだったら、生きている限り、受け入れたほうが得、というより、受け入れなきゃ生きていけない。そして、まず受け入れるべきは現在。そのために否定癖を意識して治す。

    過去と向き合いっていると、忘れがちですが、大事なことでした。こくーんさん、ありがとうございます。
引用返信 削除キー/
■3307 / inTopicNo.11)  Re[2]: たとえば
□投稿者/ るあん -(2005/04/25(Mon) 11:44:03)
    冬子さん、こんにちは。

    > 二つの作業、なぜ同時進行で進めなくてはと考えられたのでしょうか?

    インナーチャイルドを抱きしめることも、インナーペアレントを断ち切ることも、終わりのない作業のように思えたのですが、もしかしたら、後者にはある程度の区切りがあるのかもしれません。今の私には、親を許せないし、そんなことを強要されるなんて、御免ですが、いつか、親なんてどうでも良いと思える時が来るのかもしれないですね。そのときが、親から自由になれるときなのかもしれない。

    > もちろん、自分を無と仮定してしまったなら、それらの面倒な作業など、どこぞへ片付けてしまえるという、ある意味の安定感もあるものでしょうが?

    無にもいろいろな無があって、自分の存在に論理的根拠などないという意味での無をを受け入れることは、無駄な自己評価のスパイラルに陥らないために取れる、プラスの一歩たりうると思うのですが。無論、自分をなくしてしまいたいというのは逃げでしかないですね。

    親と共存しなくても、親の記憶はついて回るもので、それを料理してしまわないと、自分の心が自由でないと感じているところです。そのためには、むしろ、ある程度、積極的に彼らと関わっていったほうがいいのかもしれない。今の私のように、親と関わらないだけでは、親はいつまでも昔のイメージのまま私の心にい続けるのかとも思います。親と関わる度に、気が沈んで嫌なのですが。
引用返信 削除キー/
■3309 / inTopicNo.12)  Re[1]: 過去との関係
□投稿者/ はなぽん -(2005/04/25(Mon) 13:46:48)
    私の戦いと回復の過程で感じたことを書かせてください。



    > 過去を克服し現在を生きるためにせねばならない、インナーペアレントを断ち切りインナーチャイルドを抱きしめるという二つの作業。前者が過去を否定することならば、後者は過去を肯定すること。私には、時として、この二つの作業がどうしようもなく相互排他的に思えてなりません。二つを同時進行しようとする度に、自己内矛盾に耐えられなくなり、過去の完全肯定か完全否定かの二者択一を自らに迫ってしまいます。そして、いずれかを選択することなど不可能であること、また、どちらに傾いたところで、同じような結論――自分を消してしまいたいという願望――に至ることを悟り、絶望的になってしまうのです。

    インナーペアレントを断ち切ると言うことは、過去の自分を否定することではなく、現在の自分を、過去の鎖から解き放つこと。

    インナーチャイルドを抱きしめると言うことは、過去を肯定することではなく、過去の出来事に対して感じることのできなかった感情を感じなおすことで、現在の自分のつらさを癒していくと言うこと。

    >
    > 私という人間は、元を辿れば、物理的にも精神的にも親が作ったものに過ぎないのであり、ありのままの自分などいないように思います。子供の頃に親によって否定された私という存在、それを肯定してあげようと、自分の歴史を遡ってみますが、何を肯定すべきなのかが分からなくなります。親によって歪められた私を自由にしてあげようと、本当の自分を探し回ってみても、親の作為から完全に独立した自分など見当たらないのです。つまるところ、私という存在の根源にあるのは無でしかないのだから。

    私と言う人間は、母からもらった細胞はもうほとんど残っていなくて、今の体は、食物から摂取した栄養によって、新陳代謝を繰り返し、何世代も更新されているはず。
    精神的には、親の言うことを聞かされていたせいで、反抗期を経験できず、自立、自律のできない状態にある。親に対して疑問を投げかける、反発する、否定するといった反抗的な行動をとおして、自分で自分の行動やポリシーを取捨選択する自由を獲得し、責任を負う。自分探しのための必須事項である。


    >
    > 始めに私ありきではなく、始めに無ありきならば、何を拠り所に自分の過去を、そして自分という人間を肯定していけばよいのでしょう?私の過去の何をとっても、毒親に汚染されているものにしか見えない。彼等のしたことを肯定することなどできない。彼等が作り上げた私も肯定できない。だから、私は全てを否定する方向へと傾いてゆくのです。私を消してしまいたいと願った親を否定し、そんな親の思いを内在化してしまった自分を否定する。そうすれば、私は無になれる。

    よりどころは、自分を好きでいてくれる人がいるという事実。その人をよりどころにするのではなく、事実のほうをよりどころにするほうがいい。
    親からもらえなかった「そのままでいいよ」と言う承認を、誰かからもらったり、自分でアファメーションするしかない。
    過去の肯定は、「どうしようもなかったね。だってあなたは、子供だったんだもの。ACなんて、知らなかったもの。あんな親しかいなかったんだもの。あなたのせいじゃないよ。」ということ。


    > その完全否定の可能性は、時に私に希望を与えます。自分の過去の一切を否定して、原初状態であるところの無を取り戻し、新たに自分を作り上げていくことができたら、自己肯定の感が沸いてくるかもしれない。例えば、親と絶縁し、私が生まれたときには既に私と共にあった私の名前、性別、国籍等を変えるという行為をすれば、そういう行為をとった自分を愛してゆけるのではないか。そもそも、今の私には、それら生得条件の全てがいまいましくて仕方がない。だから、できる限り破壊したい…。
    >
    > けれども、その破壊願望はとどまるところを知らないでしょう。毒親を自分から断ち切る努力をしているうちに、自分自身をも切り刻むようになり、結局は自己破壊に至るように思います。そもそも、私は、自分を変えるために過去を破壊し、将来のために生きるということをずっとやってきましたが、そんな生き方はもう破綻してしまいました。それは、ひとつの自己否定であり、ある程度までは前進のための機動力たりえますが、自分という存在を根本的なレベルで肯定することにはつながりませんでした。何をしたって、自分の存在が許せないのであれば、何もする気になれないのです。かといって、私の過去は、肯定するにはあまりに毒親の影が強く、過去の肯定はすなわち自己の否定となりかねません。

    将来のために生きるのではなく、「現在」を生きること。
    今の自分の欲求を満たしてもいいんだよ、誰かのために我慢ずる必要はないんだよ。今、寝っころがりたいなら寝っころがろう。心の中の「怠け者!」「だらしない!」「じゃまくさい!」というインナーペアレントの声は無視だ。私の今の気持ちを優先するんだ。


    >
    > 私という存在は過去によって作られ、その過去とは私という存在の否定である場合、過去を否定しても肯定しても、自分の人生を生きるという道が開かれないような気がしてなりません。過去を忘却して、前のみを向いて生けたらいいのに。昔はそんなこともできたかもしれませんが、今の私には過去が重くのしかかります。生きていることへの罪悪感を克服しない限り、もうこれ以上生きてはいけない。そのために、過去とどう関わっていったらいいのか、肯定も否定も必要ならばその二つをどうやって共存させるのか、それとも肯定でも否定でもない第三の道があるのか、そんな答えの出ない疑問を頭の中で堂々巡りさせている昨今の私です。
    >

    過去の記憶は消えない。何度でも思い出す。それを悲しいなら悲しもう。腹立たしいなら怒ろう。うーんと悲しみ、うーんと怒ろう。それがあなたの感情ならば、それを優先しよう。悲しんでいいよ。怒っていいよ。それがあなたが現在を生きていると言うことだ。誠実に感情を感じ続ければ、いつかきっと、次の次元にいけます。

    書いてて、涙が出そうになっちゃいました。

引用返信 削除キー/
■3318 / inTopicNo.13)  Re[2]: 過去との関係
□投稿者/ るあん -(2005/04/26(Tue) 11:54:15)
    はなぽんさん、ありがとう。涙が出そうになっちゃったとのこと、大丈夫ですか?それがいい涙ならいいけれど。

    私にはまだ、インナーチャイルドが良く見えてないのかもしれない。とりあえず、母親に対する嫌悪感が強く、それが自分の中にいるみたいだから、吐き気、吐き気。いい子になろうとしている自分に吐き気。いい子になるなと叱っている自分にも吐き気。

    それでも、吐き出し続ければ、いつか、インナーチャイルドも呼吸できるようになるかもしれないですね。
引用返信 削除キー/
■3321 / inTopicNo.14)  Re[1]: 過去との関係
□投稿者/ いつか -(2005/04/26(Tue) 17:05:12)
    るあんさん、はじめまして。
    苦しいですね。私も同じように思うところあります。
    自分を肯定すること、大変です。
    ACに気がついてまだ一年です。
    自分をおかしいと気がついて、このままではいけないって思って。
    消えてしまいたい時もあります。
    同じ所をぐるぐる回って、出口がみえない。
    でも、それも大事かなって思います。
    そうしてそのまま、私はこのサイトで助けられている。
    良いといわれていることを何だかちょっとやってみたり、相談させてもらったり。
    皆さんの悩みを知ったり。
    これが少しずつ元気をもらっているんです。
    一人ではないって。
    私の場合、自分の感情がわからないということにやっと気がついたところです。
引用返信 削除キー/
■3326 / inTopicNo.15)  Re[1]: 過去との関係
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2005/04/26(Tue) 21:55:35)
    2005/04/26(Tue) 23:45:57 編集(投稿者)

    No3297に返信(るあんさんの記事)
     るあんさん、少し遅いレスですが………

     全体から受ける印象ですが………、なんだか、「過去がとぐろを巻いている」ようですね。 「蟠踞」という言葉がピッタリのような………

     さっき、NHKETVで、河合隼雄さんが、「鬱はエネルギーが行き場を失っている状態」と、言っておられましたが、るあんさんも、今、そんな感じですね。

     なんだか、過去を始末しないと、先へは進めないような感じがしますね。

     過去に、どっぷり絡め取られているような感じが、ずーーーっとしているのでしょうか?
     それは、もう、何十年という単位のようですね。
     何十年、………それは、それは、それは、しんどいですね。

     1年、2年だったら、まだしもね………。
     おそらく、その間、るあんさんは、「自分らしかった」ことって、あったのかな〜、無かったんじゃ〜ないのかな〜〜〜?

     幼かった子どもの時だって、誰かのために、一生懸命心を使ってたのかな〜〜〜?

     そんな風にして、何十年生きてきたら、それは、たまらなくなりますね。
     「ちっとも、いいことなんか無かった」って、思うでしょうね。
     思って、当然だと、思いますね。

     ちょうど、いとしい人を理不尽に奪われた人と同じで、「あの人を返してくれ〜〜〜」ならぬ、「私を返してくれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!」と、叫びたい心境ではありませんか?

     なんだか、その作業をしないと、前へは、進めないような感じがしますね。

     前へ進むのはちょっとお休みにして、どっか海に向かってでもいい、あるいは押入れの中で、真っ暗にして、ダンボールの箱の中にでもいい、あること無いことじゃなくてあったことあったこと&あったことを、あるいは思ったことを、洗いざらい吐き出したら、どうでしょう?
     ノートが破れるぐらい、書きなぐってもいい。

     出すものを出してしまわないと、後の空気も入ってこないかもしれませんね。

     中也の詩ではありませんが、汚れちまった悲しみにいっぱいになった革袋は、袋ごと、どこかのドブの中にでも叩き込んだら、少し、さっぱりするかもしれませんね。



     河合隼雄さんが言っておられましたが、「鬱は、クリエイティブ・イル」だそうですから、苦しんだあげくに、何か、生まれるかもしれませんよ。

引用返信 削除キー/



トピック内ページ移動 / << 0 >>

このトピックに書きこむ

過去ログには書き込み不可

Pass

HOME HELP 新規作成 新着記事 トピック表示 検索 過去ログ

- Child Tree -