1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
(現在 過去ログ10 を表示中)

HOME HELP 新規作成 新着記事 トピック表示 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■1718 / inTopicNo.21)  柊さんへ(かなり長文です)
  
□投稿者/ クラゲ -(2004/11/19(Fri) 01:13:56)
    柊さん、こんにちは!

    > 「友達」には言わなくてもいいのかも。って思います。

    このことば、ちょっとしたショックでした。いい意味で。
    そうか、友達にはいわなくていいのか…、そういう通念があるのか…。
    この↑一行が今の自分の頭の中の状態です。
    柊さんの中ではかなり消化されて実行に移すまでになっているように見えます。

    おおげさに見えるかもしれませんが、私にとって、大切だった価値観の修正をすることになるので、どうもいますぐ行動に移せるか分かりません。
    ちょっと混乱しているというか。
    でも、修正してそれに慣れれば、もっと生きやすくなる気がするので、変えてみたいという気持ちが強いです。

    > でも、「友達」以外の人間関係ではそういった言葉が時にはコミュニケーションの潤滑油になったりしますよね。。。
    > 例えば、同じ会社に勤めてるっていうそれだけのつながりの人間関係であるとか、仕事上お付き合いがある方とか…

    まったく同感です! この部分は納得できているので、自分でも比較的楽です。

    > あと、思い出したんです。私が過剰に感謝するのか。これも、母や祖母からの洗脳が大きいです。

    私も洗脳の部分が大きいとしか思えません。それほど強く信じていたから。
    信じる気持ちが頑ななほど強くなったのは、ここ数年です。
    ある時点から、年を重ねるにつれて母の世界にひっぱられてる感じがします。

    > 「私なんかと…」とか自分をへりくだることによって、相手に不満があっても我慢してるんです。

    この部分、はっとしました。私が考えてもみなかった見方です。そんなからくりがあったのかなぁ。
    よく整理できてませんが、正面から相手にあたらないで不満な部分を交わすってことなのかな?
    …もう少し考えてみたいです。

    > ”この人は私なんかと友達になってくれるんだから、私と一緒に遊んでくれるだけもありがたい。だから、文句なんて言ったら駄目よね”って。そんな感じです。> 何か、嫌いって思っちゃいけない。そんな感じです。私は嫌いな人があまりいないのも、そういう考えがあるからかもしれません。

    あー、なんだかすごく大切なことに気づき始めた気がします!!
    結果が柊さんと同じなんです。理由づけの仕方がちょっと違うようだけど。

    私も「嫌いって思っちゃいけない」に通じる観念があると思います。
    自分の場合は、「そうそう嫌いな人はいないよ」と思っているの。
    あくまで集団の中にいるときです。

    本当に、ことを荒立てるほど嫌いな人って滅多にいないの。
    でも、そう信じたいだけなのかな、本当は。

    私には明確に「文句いっちゃいけないのよね」という意識はないように思います。
    ただ、みんなと仲良くやるのが当たり前と思っている。それが一番心地いい。

    で、どの集団でも特定の仲良しグループができがちなんですが、私はどの人とも同じぐらいの交流をしようとする。
    そして、気づくと一人。ただ、集団の中の一人一人とはごくいい関係(のつもり)だったりするんです。

    あと、職場に関しては、自立こそ求められている世界といいますか、だからあまり集団うんぬんでは悩まないでこれました。
    所詮、演じることが前提だと思えていたし。
    そのさみしさが時折プライベートで吹き出すことはあったけど。

    > 母や祖母の洗脳も大きいのですが、それをそうだと信じ込むもうひとつの理由が友達関係にもあります。私と似たような考えの子が多いんです。。。
    > どこにいってもそうなんです。今、幼稚園で同じバス停になるママさんたちもそんな考え方の人多いです。割と、自分を低く見積もってる人ばかりです。だから、みんな話しが合うのかもしれません。うーん…ACだらけ?

    そうなんですか。周りに似たような考えの人が多ければ、疑問がわくことがないのも自然ですよね。
    正直にいって、一瞬、柊さんがうらやましく思いました。
    ただ、「自分を低く見積もっている」というのは、人のことであっても私は痛くてしょうがない…。
    私は多分、よっぽどの自己否定でなければ、そういう部分からくる態度を謙遜→思いやりと解釈していたのかも知れません。

    そういう方たちの中で、柊さんご自身は、居心地はどうでしたか? ACに気づく前とか。

    私の場合は、そういう人たちとの接点はあまり多くないんです。
    自分が多少居心地いいなと思っても、相手の人たちはちょっと違うと思っているよう。
    よーく考えてみると、自分からみても多少の違和感はあるんだけど。

    私は、そういう一歩引くような態度や考えをもちつつ、自我もけっこう表しているからだと思います。

    堅い母の元でしつけられてそれに縛られつつも、反発もしていたんです。
    そこは柊さんと違うのかな?
    その場その場の調和を気にしつつ、はねっかえり人生を送っているところがある(わけわかりませんよね)。
    その二つの部分の混在が自分を複雑にしていて、自分がどんな人間なのか、一言で説明できません。

    とっかかりは自己主張のはっきりしたタイプとけっこう話すけど、付き合いを続けると自分のセンチなところも出てきて、それで違和感を感じ始めます。

    仕事や自分の趣味の活動を精力的にしていたここ数年(鬱で動けなくなる前)は、やっぱりはっきりタイプの友人との交流が多かったです。
    今の私はそういう人たちのふるまいに違和感を感じつつあって。
    それぞれの思っていることをできるだけ率直に話せる関係がすきなんだけど、白黒はっきりって人間では私はないし。

    > 全く、同じことを感じていてやってました。だから、友達は少なくなかったです。家族がわかってくれないから、友達に救いを求めてたのかもしれません。でも、嫌われたくないから、ちょっとがんばってた気がします。

    小学校の頃から演じているところがあったというのは、私の場合、このスレッドでいただいた返信を読みながら気づいたんです。
    柊さんが以前、小学生の頃から演じていたと言われたときは、気づいていなかった。

    私も同様だと思います。家族に満たされない心を友達と通い合わせたかった。

    私の場合、友達>家族という構図は早くから意識していました。
    記憶は定かじゃないけど、中学一年ごろはすでにそう思っていました。

    その観念はずーっとあって、今でも崩れてはいません。
    だから、既婚であっても、友人のことがこんなに気になるのです。

    ちなみに夫のことは、近しい友人の一人のような感覚で捉えています。
    ようやっと夫婦とか家族を肯定的に捉えられるようになってきたので、少しは変わってきましたが。

    友達が一番というのは、心情的な部分でわかってくれるから。
    だから、友人にはそれなりに気をつかっていたかなー。

    自然でいていいんだと思っていたし、そうできる友人が親友だと思っていました。
    時期ごとに一人か二人ってとこだったけど、その存在さえあれば、他でまた元気に演じることができていました。
    最近は…結婚したり環境が変わったりで、そう感じる存在が実はなくって、それでこんなやきもきしているんでしょうね。

    > これを考えてたんです。私は誰に見せることができるんだろう。。。って。
    > 今のところ、旦那しかいないですね。

    私もそうです。。このHPで少しは本音をいえるようになって助かってるところ。

    > 私もそう思います。集団生活ではある程度必要だと思ってます。自分を素直に出せる相手がいるなら、演じる場面があってもいいのではないかな?とかそんな気持ちにもなってるんです。要するに演じてる私も私の一部なんだ。って。

    そうなんです。集団生活の部分で真の自分が出せなくて、ときおりしんどくなるけど、自分に必要だとわかっているから肯定的に考えることができます。
    演じている私も私の一部、まさにそんな感じで認める気になってるんです。

    またつらつらと書いて長くなってしまいました。
    やっぱり深く話すといろいろな共通点もあるし、見えてくるものがありますね。嬉しいです。
    それでは、また。。
引用返信 削除キー/

<前の20件

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 >>

このトピックに書きこむ

過去ログには書き込み不可

Pass

HOME HELP 新規作成 新着記事 トピック表示 検索 過去ログ

- Child Tree -