1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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■78 / inTopicNo.1)  岸和田の児童虐待事件に思うこと(フラバ注意かも)
  
□投稿者/ 蔦吉 [MAIL] -(2004/01/27(Tue) 15:47:03)
    あまりに痛ましい事件の概要はそこら中のメディアで報道されているので、今さらここでは書きません。
    ↓「2ちゃんねる」スレッドや主なネットニュース等を中心とした事件のリンク集
    http://perape.hp.infoseek.co.jp/column/e00/colm_e893.htm

    だけど今回の事件は特に、おおよそ1年間も、なんでこんなになるまで対応が遅れたんだろう…学校も、近所も、「薄々感づいていた」らしいということが、何か「やりきれない」というよりも「不気味」な感じすらするのです。

    そう、「薄々気づいて」いたわけね?
    「気づいて」、それから、あんたたちはどうしたの?
    「気づいて」、そうして、「かかわり合いにならないことにした」ということなんじゃないの?と。

    もちろん、学校や児童相談所の組織・システム上の問題やなんかもあったことだろうとは思う。近所の人が介入しようにも、虐待加害者の親の前でビビってしまった、というのもあっただろう。
    しかし、と、あえて思います。
    誰も本腰入れて介入できなかったということは、その時点で、1年近くも学校に来ない、明らかに家の様子がおかしい一人の中3の男の子との、かかわり合いのスイッチを切ってしまったということなのではなかっただろうか、と。

    体重が24キロにまで減って、瞳孔も拡散し、肘も膝も床ずれによる壊死で皮膚に穴が開いて、衰弱したまま暗い部屋のビニールシートの上に横たわっている子どもの存在が明らかになって、私たちは自分自身もひそかに恐れていた「最悪の事態」の現実化した絵図に、憤りをもって共感する。
    だがそこに至るまでに――誰もこの子の幸せを、本気で考えた大人がいなかったのだろうか。

    近所にしたって学校の先生や相談所にしたって、被害者の少年を「うちの子じゃないからべつに養育義務もない、関係ないよその子」「生徒=学校という職場で顔つき合わさなくちゃならない記号みたいなもの」としか思っていなければ、少年の家庭で何が行なわれていたって、心の痛みも責任も感じることはない。

    けれどもそこに至るまでに、ほんのささいな想像力さえあれば――どこか様子のおかしい、浮かない顔で家に帰っていく少年を、自分の子、自分の家族、あるいは大切な人や憧れている人や、自分にとって関わりのある誰かと置き換えてみる想像力さえあれば――事態はもっと違ったものになっていたのではないか、と。そんな気がするのです。

    橋本治の『宗教なんかこわくない!』という本で、

    「日本には、「親は子供を愛さなくてはならない」はあっても、「大人は子供を愛さなくてはならない」はない。こういう話になると、「なんで他人の子供を愛さなくちゃならない?」になる。日本ではいつの間にか、「世の中が子供を育てる」という発想がなくなってしまったので、「他人の子供を叱ろう」という運動だって生まれる。こういう“運動”が生まれるということは、“愛する”以前に“関わりを持つ”ということが欠落しているのだが、困ったもんだ」

    という言葉があるのですが、いまの世の中がなくしてしまい、それがないためにしきりに寂しい、疲れた、癒されたい、と言いつづけているものは、そういう、少なくとも同じ血のかよった人間同士として「関わりを持つ」という発想ではなかったろうか。
    それさえあれば、虐待事件の舞台となった多くの家族も「密室」にならずに済んだのではないか。そんな気がします。
引用返信 削除キー/
■79 / inTopicNo.2)  Re[1]: 岸和田の児童虐待事件に思うこと(フラバ注意です)
□投稿者/ ヤン・ウーロン [MAIL] -(2004/01/27(Tue) 16:18:44)
    No78に返信(蔦吉さんの記事)

    >蔦吉さん

    私も蔦吉さんに同意見です。
    今回の事件は直接の凄惨さとともに、なぜこのようなところまで事態がいってしまったのかが重要だと思います。

    私は以前、水戸市に住んでいて、そのときに水戸アカス事件(知的「障害者」への性的虐待をはじめとした差別事件)の被害者のみなさんと知り合い、微力ながら裁判と、彼女ら彼らの自立のために応援しています。
    その時事件の直接の凄惨さもさることながら、「なぜそんな密室が生まれてしまったのか」と強い憤りと疑問を持ちました。

    今回の「岸和田の児童虐待事件」についても、直接虐待に手を下した親の責任はもちろんですが、「密室」を生み出してしまった「親戚」と「地域社会」はなんだったのかが問われるものだと思います。

    また、こうした「密室」の存在をすぐに「忘れてしまう」(したがって被害者は絶えず無責任な好奇心にさらされて二重に傷つく)世間のあり方も問題ですね。

    ところで、2ちゃんねるの投稿はあいかわらずひどいですね。不愉快な気持ちになりたくない方はさけた方が無難と思われますが、いかがでしょうか?
引用返信 削除キー/
■81 / inTopicNo.3)  Re[1]: 岸和田の児童虐待事件に思うこと(フラバ注意かも)
□投稿者/ まんまる -(2004/01/27(Tue) 18:21:17)
    No78に返信(蔦吉さんの記事)
    > あまりに痛ましい事件の概要はそこら中のメディアで報道されているので、今さらここでは書きません。
    > ↓「2ちゃんねる」スレッドや主なネットニュース等を中心とした事件のリンク集
    > http://perape.hp.infoseek.co.jp/column/e00/colm_e893.htm
    >
    私も途中から見ましたが、もうやるせない気持ちでいっぱいです。
    男の子がかわいそうで、気分も落ち込み気味です。

    > 橋本治の『宗教なんかこわくない!』という本で、
    >
    > 「日本には、「親は子供を愛さなくてはならない」はあっても、「大人は子供を愛さなくてはならない」はない。こういう話になると、「なんで他人の子供を愛さなくちゃならない?」になる。日本ではいつの間にか、「世の中が子供を育てる」という発想がなくなってしまったので、「他人の子供を叱ろう」という運動だって生まれる。こういう“運動”が生まれるということは、“愛する”以前に“関わりを持つ”ということが欠落しているのだが、困ったもんだ」
    >
    本当ですね。こういう視点は大事ですね。
    まして、子どもを持つ大人からでさえ非難されることの多いのは現実です。
    何かがずれていっているような思いです。

    「虐待」する側に対して「罰」ではなく「援助」を、
    「虐待」の正しい認識、等など必要なことが浮かんできます。
    どうかこの事で、法律などの動きがあって欲しい。
    以前通報した時の無力感が蘇って辛いですね。



引用返信 削除キー/
■82 / inTopicNo.4)  Re[1]: 岸和田の児童虐待事件に思うこと(フラバ注意かも)
□投稿者/ ノラネコ -(2004/01/27(Tue) 19:30:28)
    No78に返信(蔦吉さんの記事)

    本当に、痛ましいという言葉をいくつ重ねても表現できないくらい痛ましい事件です…

    アメリカには、ペットに対する虐待やネグレクトを取り締まる(逮捕権のある)組織もあるというのに、日本はこの体たらく…(もちろん、一番悪いのは実行した親ですが)。つくづく情けない。
    一体どれだけの子供を犠牲にすれば、法改正に乗り出してくれるのか。

    児童相談所の組織にもっと広く活動できる権限を持たせるとか、人員を増やしきちんとした虐待に関する勉強をさせるとか、もしくは警察介入の権限を与えるとか、やらなければいけない事はたくさんあるかとは思いますが…

    大抵の人が、「虐待なんてひどいことは、テレビの中だけ」「親が子供を死なすなんてそんなバカなこと」と、まだどこかで事実から目を逸らし客観的に「事実」として認めきれない、他人事として考えている事も大きな原因なのかな。

    鳶吉さんの書き込みにある『大人は子供を愛さなくてはならない』という言葉を、大人はもっと重く受け止めなければいけないと感じました。
    いたってシンプルな、でも最も大事な根本ですよね。

    今はとにかく、男の子の回復を祈るだけです。

引用返信 削除キー/
■85 / inTopicNo.5)  Re[1]: 岸和田の児童虐待事件に思うこと(フラバ注意かも)
□投稿者/ ひこうき -(2004/01/28(Wed) 11:55:11)
    痛ましい事件が続きますね。

    継母が、主導権を握って虐待があったってことだったけど・・
    (それはもちろん絶対やっちゃいけないことですが)
    【連れ子】継母応援スレッド その2【実子】
    http://life2.2ch.net/test/read.cgi/baby/1035186220/l50
    を読むと、実際「継母も大変だっただろうな〜。」って思います。

    今は、育児は両親(主に母親)がすることになっていますが・・
    全ての人からの全ての子供へのサポートが必要だし。
    全ての人からの全ての育児をしている親へのサポートも必要だと思う。
    (継母・継子に限らず)

    密室を作ってしまったのは、両親だけではなく、かかわり合いを持ちたがらなかった人達のしたこと。

    橋本治の言うように、「大人は子供を愛さなくてはならない」は、本当だと思う。
    大人どうしも愛せれば尚いいとおもうのですが・・?

    男の子のカラダと心の健康を祈ります。
引用返信 削除キー/
■113 / inTopicNo.6)  Re[1]: 岸和田の児童虐待事件に思うこと(フラバ注意かも)
□投稿者/ hu- -(2004/02/03(Tue) 18:36:16)
    No78に返信(蔦吉さんの記事)
    > あまりに痛ましい事件の概要はそこら中のメディアで報道されているので、今さらここでは書きません。
    > ↓「2ちゃんねる」スレッドや主なネットニュース等を中心とした事件のリンク集
    > http://perape.hp.infoseek.co.jp/column/e00/colm_e893.htm
    >
    > だけど今回の事件は特に、おおよそ1年間も、なんでこんなになるまで対応が遅れたんだろう…学校も、近所も、「薄々感づいていた」らしいということが、何か「やりきれない」というよりも「不気味」な感じすらするのです。
    >
    > そう、「薄々気づいて」いたわけね?
    > 「気づいて」、それから、あんたたちはどうしたの?
    > 「気づいて」、そうして、「かかわり合いにならないことにした」ということなんじゃないの?と。
    >
    > もちろん、学校や児童相談所の組織・システム上の問題やなんかもあったことだろうとは思う。近所の人が介入しようにも、虐待加害者の親の前でビビってしまった、というのもあっただろう。
    > しかし、と、あえて思います。
    > 誰も本腰入れて介入できなかったということは、その時点で、1年近くも学校に来ない、明らかに家の様子がおかしい一人の中3の男の子との、かかわり合いのスイッチを切ってしまったということなのではなかっただろうか、と。
    >
    > 体重が24キロにまで減って、瞳孔も拡散し、肘も膝も床ずれによる壊死で皮膚に穴が開いて、衰弱したまま暗い部屋のビニールシートの上に横たわっている子どもの存在が明らかになって、私たちは自分自身もひそかに恐れていた「最悪の事態」の現実化した絵図に、憤りをもって共感する。
    > だがそこに至るまでに――誰もこの子の幸せを、本気で考えた大人がいなかったのだろうか。
    >
    > 近所にしたって学校の先生や相談所にしたって、被害者の少年を「うちの子じゃないからべつに養育義務もない、関係ないよその子」「生徒=学校という職場で顔つき合わさなくちゃならない記号みたいなもの」としか思っていなければ、少年の家庭で何が行なわれていたって、心の痛みも責任も感じることはない。
    >
    > けれどもそこに至るまでに、ほんのささいな想像力さえあれば――どこか様子のおかしい、浮かない顔で家に帰っていく少年を、自分の子、自分の家族、あるいは大切な人や憧れている人や、自分にとって関わりのある誰かと置き換えてみる想像力さえあれば――事態はもっと違ったものになっていたのではないか、と。そんな気がするのです。
    >
    > 橋本治の『宗教なんかこわくない!』という本で、
    >
    > 「日本には、「親は子供を愛さなくてはならない」はあっても、「大人は子供を愛さなくてはならない」はない。こういう話になると、「なんで他人の子供を愛さなくちゃならない?」になる。日本ではいつの間にか、「世の中が子供を育てる」という発想がなくなってしまったので、「他人の子供を叱ろう」という運動だって生まれる。こういう“運動”が生まれるということは、“愛する”以前に“関わりを持つ”ということが欠落しているのだが、困ったもんだ」
    >
    > という言葉があるのですが、いまの世の中がなくしてしまい、それがないためにしきりに寂しい、疲れた、癒されたい、と言いつづけているものは、そういう、少なくとも同じ血のかよった人間同士として「関わりを持つ」という発想ではなかったろうか。
    > それさえあれば、虐待事件の舞台となった多くの家族も「密室」にならずに済んだのではないか。そんな気がします。
引用返信 削除キー/
■114 / inTopicNo.7)  ↑すみません、誤送信です。
□投稿者/ ふー -(2004/02/03(Tue) 18:40:04)
    半角キーにしたまま、手元見て決定のつもりでエンターキーを押してしまったら
    もろにスレッドあげてしまいました。
    さらに削除キーも記入していないので自力で消せません。申し訳ないです。みなさん。

    長文なので出直します。すみません。
引用返信 削除キー/



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