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私たちの物語 - 家族過去ログ No.74
メッセージ数:1480件

<1480> ぺあ ■2008年04月10日 木曜日 12時15分24秒
姉に対する思いがなああ・・・・・
この家のパワーゲーム。
でも、家族がいなければ、私は、心許せる人少ないし、孤独だろうなあ。

私、昨日、ぶすな子を見て、すごい元気になった。「髪型を気にしていたけども、こんな程度じゃなく、いた。あの子よりましだよね」と思うと俄然元気が出てきた。
あの子よりまし。まだ下が居る・・・・
大丈夫。安心。
多分、私はとても安心がいつも欲しい子なの。どっちに落ちても大丈夫、まだ「もっとやばい人」がいるから。って思うとものすごく嬉しい。

多分、これなんだろうなあ。
好きな人に対して今度は、その人の優越感をくすぐるために、わざと、「友情愛情のしるし」として、その人よりも下であろうとすること。

姉の見下し。ばかにし。良い大学にいくこと、一流の企業に入ること。彼氏がたくさんいること。多くの人と付き合うこと。友人がたくさんいること。全部、競争。いつも明るくいれること。強くて、何でもいえる人でいて、皆に一目置かれていること。
全部、どっちが勝った負けた、競争。
この家族親戚すべてが競争している。
父方の叔父が、「結局、一番幸せだったのは、一番上だ」って言ったの。父の3兄弟は常に学歴で祖父に比較、競争させられてきた。それで、良い企業、幸せ競争。子供まで学歴競争に走らされ、結局、だれもこの親戚はいとこがいても、仲悪いというか、まったくかかわりがない家族なんだ。

競争・・・・・・
私もまた競争・・・・・
人間関係すべて。
幸せを喜べない。
もう、いや、この家族も姉ももういや。もういや。もういや。捨ててもいい?
捨てたいよ。もういらない。
今更、「Oちゃあああん、一緒に旅行行きたい」とか姉から言われるけど、もいいや。どこまでもばかにされる。
でも、寂しい家族、これが最後の家族旅行になるかも・・・とかいう別の私を批判する目もあって。
もういやもういや。
何やっても、「はあ?おまえばかじゃん」って姉には悪気なくても、もういや。あの人の目の中でいるも「あなたが許してくれる範囲」を探って、優越感を覆さないために、必死で、姉よりもちょっと下な存在でいようとするのも、かわいく彼女に映らないように、メイクもすべて控えめにするのももういや。
もう、この勝負の世界から、私は離れたい。
一度で良いから、一緒に誰かと生きて・・・乗り越えて、コミュニケーションとって、もっと安心して誰かと一緒にいて、喜びも悲しみも分かち合いたい。
<1479> ぺあ(FB注意) ■2008年04月08日 火曜日 15時58分16秒
私、正常に生きている演出をしてきた。
周りの子と同じように。

でも、本当の思いも持ってきた。
何か、変だよね?っていう思い。父が期限付きで人格変わるくらい、母をなじること。過去のこと。
いつも整合性が欲しくて、いた。

外の自分と中の自分の乖離はひどかった。

中の自分は、自傷して、外の世界を心に入れないようにして生きてきた。

みんな同じなんだよね?
正常に生きているふりして、違う。
でも、正常な振りしていることにものすごく罪悪感と、そういう風に振舞えない人への罪悪感。
親への「うそつきな娘でごめんなさい」という思い。
で、本音を出そうと頑張った。本音を出そうと、乖離するくらい、頑張ってきて、その結果、すべて失敗というか、何よりも乖離するくらい怒声を浴びせかけられた。実習で。「しめしめ、本性だしやがって」ってどこかで思っていたかも。「私は傷つかないよ〜ん。だって、自分の皮をぬいで、精神はもう乖離しているから。どっか上で見ているから。私のことどこまでもやってもいいよ」そう思った。いじめられた時代もどんなにいってもやめてくれない、どこにいってもいじめられてしまうと分かった時に、そう思った。
乖離を使うの。

外の私と中の私。
中の私は父の自死の前兆を確かに感じていたんだ。
でも、もう言えなかった。

<1478> ルピナス ■2008年04月01日 火曜日 21時56分08秒
一番古い記憶。
それは、弟がまだ生まれる前。私が、まだ立って歩けない1歳かそこらの頃に、母に抱っこされて行った予防接種の時の記憶。

あの頃は、良かった。
私は、まだ、大切にされていた。

6歳になった幼稚園の年長さんの辺りでは、私はもう、母から、あまり目を向けられなくなっていた。
“自分の事は自分でしなさい。こんなに大変な私の状況を理解しなさい。”という母からの無言のメッセージを、6歳ながら、反発を覚えながらも理解して、家に迷惑がかからないように努力した。

家庭の中の母は、貧しかったし、2人の育児で大変だったし、父からは、妻として大事にされていたなった。
だから、今、考えても、仕方なかったって思う。

悲しいのは、そんな母の記憶の中には、大変だった自分の記憶しか無い事。
苦しかった自分だけを中心にした出来事の記憶しか無い事。

大変な人生を一緒に生きてきて、子供なりに苦しかった私や弟の気持ちの存在は、母の中に一切存在しない。

昔の話をする時、母は、自分の大変だった話ばかりする。
“お父さんで大変だった。あんた達、2人の子供で大変だった。”

“でもね、お母さん。私も、あの頃、子供なりに大変だったよ。”
私が、そういう事を言うと、母はいつも決まって無言。無視と言った方がいいか。
そして何故か、母にノーコメントをされた後、私がすぐに、“まずい。とりつくろわなきゃ。”と思い、とっさに、気を使って、母の無言をフォローして、次の話に持って言っていく。いつもこの調子。

何でこんな事されるの。何でこんな事できるの。

私、これじゃ、母の人生に存在しない透明人間。
良くとったって、キャラ設定の無いセリフの無しの“通行人A"。


苦しい。そして、悲しい。

私って、この世に存在してないの?
<1477> halu ■2008年03月30日 日曜日 13時42分44秒
父と話すと後悔の話ばかり・・・
母は優しいから、父が仕事辞めるときもしんどかったら辞めたら・・・
って言われて辞めたって・・・
父と母の組み合わせが悪かったんちゃう?
二人は結婚しても子どもを持って生活できるような組み合わせではなかったんちゃう?
<1476> halu ■2008年03月30日 日曜日 13時29分54秒
久しぶりに父親と話した。
大企業の秘書をしていた人が、気象予報士になった話しを聞かされた。
大企業の秘書できるくらいやったら、元々育ちがよいんちゃう?
ある程度普通に暮らせてたら、大企業の安定した社員捨てて、
契約社員の気象予報士になれるんちゃう?
その気象予報士はテレビに出てる人らしい・・・
テレビに出てる人って、良くも悪くも特殊やから、
その人のような感じになれるのって、かなり確率低そう・・・
夢を持つことや好きなことをするのは大切やけど・・・
偉人やテレビに出てる人、作家や芸能人をまねするのはどうか?
父の発言を聞いてそういうのだけを参考にしてるから、
もっと親戚(付き合いないから聞けない。涙)や周りの友人知人に
聞いたほうが良いんじゃないかと思ってしまう。
<1475> ぺあ(FB注意) ■2008年03月27日 木曜日 19時06分59秒
 父を助ける・・・こんな無理難題な重い重い荷物を、無理な荷物を、彼のプライドを刺激しない子供だからと言う理由でか・・・俺も親の言うことは聞いているという思いからか・・・・背中にしょわされて生きてきた。
 いっつも、父の「こんなに欲しいものを、お金を出して、何不自由なく暮らさせてやっているのに!!!!!」というものすごい怒りを感じて、私は生きてきた。いつもは優しい父だけど、見たまま自然に思ったことを言うことは、死んでもできなかった。
 自死の半年前に、正直な自分の思いを書いた手紙をその随分前に渡していたんだけども、そのことに急に触れてきたり、「お前ってなんか怖いな」とかいってきたりした。
 全部、もう無視したけどね。だって、その手紙渡したときに、父が言った事は「過去は変えられません」だけだったんだよ?
 で、今度は、自死かよ!!!!!!!

 なんてゆう親なんだ。親じゃない!!!いっつも私に助けを求めてきて、いっつも子供役を永遠にさせられて、いっつもできるのに、できないフリをさせられていて、いっつも私が父や母の思考体系を否定しないように、その中におさまるようにだけ考えて生きて、二人の中を取り持ったり、家族のピエロだったり!!!!!!!!!

 でも、もう何も信じられない。だって、結局、ここに来ている方だって、だあれもだあれも私の父のことも私のことも正確にわかってくださった方はいなかったじゃないか!!!!だあれもいなかった!!!!!!
ただただ父の自死を待たされて、分かっているのに、声の出せなかった子供だったのよ!!!!!
私分かっていたのに!!!!
 結局、どんな人のアドバイスも役には立たなかった!!!!!!もう、いや、だれにも、「ああしろこうしろ」だなんていわれたくない!!!!1ミリだって間違えていたら私はここで元気に大人になれなかったのよ!!!!!
ずっと、前にここに来ていたけども、結局、やっぱり元気なふりして、回復しているふりして、だあれもいない砂漠を歩いているようだった。父が自死してようやくすべてを知った。ばかじゃねえええの!って感じ。このくそおやじも。もう、やめろ。いじめられた時の耳に虫を入れられたときのものすごいぎゃっちゃぐっちゃのあいつの笑いが私にまじかに向かってきたようなそんな、馬鹿にされた魂ぐちゃって潰された痛みだった、父の自死もまた。
<1474> ミン ■2008年03月20日 木曜日 16時40分35秒
母子家庭だから!と品物を値切ろうとする女性が来た。
その人を見て母を想った。
私は片親で肩身の狭い思いをして成長したが
私の知る限り母は母子家庭という言葉を言い訳に使ったことはなかった。
外ではあったかもしれないが、それは見聞きしてないのでわからない。
母が私に向かって、その言葉を出して何かを諦めさそうとしたこともない。
足りないことを責めてはいたが、世間でいう普通のことをしてもらっていた
ことについては感謝の気持ちなんて湧いてこなかった。
そのことについても、母が生きている内に気づくことができなかったことを
残念に思う。
<1473> 真名 ■2008年03月19日 水曜日 01時39分30秒
家族は普段大切だとか思ってないけど、病気で入院したときとかありがたいと思う。
なんでも話せるし、気を遣わなくてすむ。
病棟の人ともいろいろ話すけど、家族が恋しくなるし、会うとほっとする。
と言っても、お父さんとお兄ちゃんは面会に来ないから、お母さんとおばあちゃんについてなんだけど。

お父さんはベターって感じだと気持ち悪いから、今くらいドライな感じでいいかな〜と思っている。
お兄ちゃんとは話さないなー。
会話のない兄弟。
異常かもしれない。

お母さんは子供のころ怖い存在だったし、相談できるような安心感は感じられなくて、何でも自分で決めてたんだけど、いまは何でも相談できるし、気軽に話せるので楽になった。
子供のころ、今の状態なんて手に入れることは想像でしかなかった。
あの頃から考えると、奇跡だ。

おばあちゃんは子供の頃からすごく!優しい存在。
無償の愛を惜しげもなく注いでくれた人。
今も可愛がってくれている。
だから、おばあちゃんが大好き。
おばあちゃんがいなくなるなんて、ほんとうに怖いし、悲しい。
もし魔法が使えたら、おばあちゃんに不老不死の薬をあげたい。
私がおばあちゃんにしてあげられることなんて、マッサージとか、お茶を淹れるとか、白髪染めをしてあげるとか、化粧品を買ってきてあげるとか、そのくらいしかないけど、おばあちゃんが具合が悪くなったら、精いっぱい面倒を見たいと思う。
具合悪くなって欲しくないけど。


最近思うことは、母がよく私を育ててくれた、ということ。
まだ野菜ジュースなんてメジャーになってない時代に、毎朝ジューサーで野菜ジュースを作ってくれた。
飲みづらいのもあったけど、食事のほかに野菜や果物を切ってジュースを作るなんて、大変だったと思う。
でも、毎日欠かさず作ってくれた。
健康を気にしてくれた、母の愛情だったんだと思う。
子供のころはそんなこと全然思わなかったけど。

「好き嫌いせず、何でも食べなさい」と言われ、あまり好きでないものも食べていたせいか、好き嫌いはほとんどない。
珍しいとよく言われるが、冷ややっこが好きではない。
豆腐のお味噌汁とか、湯豆腐とか、麻婆豆腐なんかは大好きなんだけど、冷たいお豆腐がダメ。
ちょっと脱線してしまったけど、嫌いなものが少なくて、バランスの良い食事をとる習慣ができたのも母のおかげだと思う。

あいさつとか礼儀とかにうるさい親だから、その点は身に付いた。
うるさすぎていつも緊張してたのは、ACだったからだけど。

あと、子供のころ好きな習い事を全部させてくれたことも感謝している。
お絵かき、水泳、ピアノ、習字、空手、塾。
中学受験は無理矢理だったけど、習い事に関しては何一つ押し付けてこなかったし、好きなことをさせてくれたから、うれしかった。
まぁ、うちの親の唯一の正常な部分だったのかもしれないけど。
「物質的・経済的には不自由のない生活をさせてくれた。そのことには感謝している」と言ったことがある。
父親は驚いたような顔をしていた。

もうすぐうちが店じまいをする。
私が生まれた時には既にあった、江戸時代からあった店が無くなる、そう思うと悲しい。

私は今までにどのくらいの長さのうどんを食べてきたのだろう?とおかしなことを何度か考えたことがある。
もうあのうどんは食べれない。
お店のどんぶりに入ったうどん。
何の変哲もないうどんだったけど、おいしかったな〜。

すごく悲しい。
お店と、お店で働いてくれていた従業員さんと、おばあちゃんとお母さんに、こころから「お疲れさまでした」と言いたい。
<1472> 真名 ■2008年03月07日 金曜日 05時03分50秒
おにいちゃんが嫌いなんだけど、それはなんていうか、相容れないものがある、という感じ。
それがなんなのかは未だに正体不明なんだけど。
でも、お兄ちゃんに関する話もするし、嫌いじゃないのかな?
顔を見ると、よそ様に会った気がするけど、心のどこかでは慕う気持ちがあるのかもしれない。
過去は過去で、忘れられたらいいのに。
<1471> 真名 ■2008年03月04日 火曜日 20時47分34秒
あんたが家族に愛されてるの納得いかない。
あんたは私以外の家族から見たら大事な存在なのかもしれないが、私にとっては全然大事じゃない。
あんたが私にしたことは、謝って済むことじゃない。
何を勘違いしてんの?
許されると思ってんの?
あんたがしたことは、何の言い訳もできないだろ?
親の言う、しつけのつもりとか、育児ノイローゼとか、病気とか。

あんたのことは絶対許さない。
どう考えても許せることじゃない。
この先もずっと。
人の心を引き裂いて。
何もかもをぶち壊しにして。
あんたは人間じゃない。

<1470> ぺあ(FB注意) ■2008年03月02日 日曜日 15時32分16秒
 母が帰って来る。
母の「いつか救世主が現れる、そして私の生活はいっぺんによくなる」そういう願望から逃れられない。
 常に母に満たしてあげられない思いだけを持って生きている。
 父が自死して、私は母のお守りだった。お守り役。究極の愛情を注いで、母が「今までどのくらいあんたたちにやってあげたと思ってんのよ!!!」という怒りから逃れようとしている。
 私、なんのために生きているんだろうか?母の事だけが心配。母ががんになったら、きっと母は受入れられないはず。そんな心配しかできない。母のために死んでもいいかもしれないとしか思えない。
<1469> ぺあ(FB注意) ■2008年02月26日 火曜日 22時05分46秒
 東ちづるのACを告白したテレビを見た。
私そのものだと思った。彼女の美しさと頭の良さは別にしても。

 そう、まさにそうって思った。
 私もずっと、「お前のため」という文言の中で、私のできることを父が取り上げ、「これだけお世話してやっている」と過保護という虐待をされた。
 でも、その父はとても辛そう。そんな姿を見ては元気失せて行った。
 双極性気分障害の父。そして母に当たる姿。でも何事も無かったかのようになってしまう両親。姉の「お前はばかだから」ということで、何から何まで「ああしろこうしろ」と言われる。
 自信なくてその通りにしていた私。どこまでも私の感情に沿ってもらったこともない。常に「これだけやっている」という苦しげな父の姿。常に人を救わないとと思い続ける私。
 いじめ。
 
<1468> HO ■2008年02月25日 月曜日 01時25分34秒
叔父が死んだ。
話を聞く限りでは、かなり壮絶な死に方だった。

実に叔父らしい最期だったと思う。
誰にも必要とされず、誰にも幸せを与えず、自分を偽り、自分を憎み、そして死んでいったんだろう。

叔父の存在には何の価値もなかった。
呪いと共に生まれ、呪いとともに死んでいった。
憂鬱な気持ちを撒き散らしながら生き、虚しい人生を強烈に刻みつけながら死んだ。

僕や兄が生まれる前に、死ぬべき時に死んでいればよかったんだ。

あの時にお前は廃人になっているべきだった。
<1467> ぺあ(FB注意) ■2008年02月24日 日曜日 15時47分53秒
父が自死してよかった。いなくなってよかった。
だって、私のAC原因分かったもの。よかった。これで正真正銘ACだし。これで、もうお前は恵まれたずるい人間だと、どこからも言われない。
 十分不幸が烙印されたわけ。はっきりいって、そんな烙印以前に私は不幸だったけども。演出人生で、心はずるいから壊すそれが成長期の私だったから。
 私は常に自分は「かわいそうな人」から何か幸せを取っている「ずるい、汚い」という自己イメージでいた。当然彼氏なんか、自分の感情伴って、自己判断つきでしかも、世間で通用する男の人の大切にされているわけだから、そんな贅沢で、幸せすぎることは私みたいに存在しているだけで、もう不幸な人から幸せを吸っているわけだから、許されないと思い込んでいた。そしてそう思いこんでいるからこそ、私はバブルみたいな快楽主義の貪欲きったない人間にはかろうじてならないんだわって思っていた。いじめられているからこそ、いい人間になれるとも思っていた。いじめられているからこそ、私はバブルに走らない清くてきれいな子でいられると心から今でもまだ少し思っている。 
 
 私ってなんなんだろうな?耳にありとか入れられてさ。逃げるなの連続のこの家。
 思えば、私の父方の祖母も父の弟も双極性気分障害なんだ。そして祖母は、自死未遂を何回かしたのだ。ガス栓ひねったり。父の弟は措置入院したこともあった。
 外面的にはそんな風には一切見えない家なんだけどね。だからこそ、私も順調人生を演出してすることだけが生きがいだったのかもしれない、子供の頃。
 父は私が浪人時代、自死を心配していた気がする。だって、私常に、食事で呼ばれたときに、勉強に切がつかなくても、すぐに飛んでいった。そうじゃないと、父や母が私を自死していると思っているに違いないという変な思いがあったのだ。お風呂で蓋閉めて、岩風呂気分を味わおうとした時に、父に「何やってんだ!」ってお風呂のドアを開けられたことがあった。自死しようと思ったみたい。私ははあ?って感じだったんだけど。
 不思議なことだった。確かに私は家族が好きだった。とても。でも、だからこそ、自分を壊して、かわいそうな「あなた」後に不特定多数の「あなた」が死なないように奔走し、すくうために一生懸命になった。
 外面的には自分の気持ちの言えない、いじめられっこ。卑屈な子、引きつった顔を常にしている子だろうか。
 今、父のいなくなった情報を聞いて、近所に同級生に「かわいそう」って思われてもいい。だって、違うから。本当にかわいそうなのは私の子供時代。意味不明な世界で、必死に自傷したりして、人を助けようとして、理不尽な扱いや他者からのストレス発散に無防備な、そんな子供であり、怒りもどんな感情も自分に許せずに、乖離に近い状態になったり、心を殺しながら、それでもうまく行っている順調路線を親のために、演出し、振りをし続ける私。それが一番かわいそうだった。ずうっと、ものすごい怒りを壊して、許せなかったから、殺意もすごくあった。殺したかった。きっと今も。殺したい。それは自傷も含んでいるの。その思いをいつか本当に受入れられる日がくるように、祈っています。
<1466> ぺあ(FB注意) ■2008年02月24日 日曜日 15時28分55秒
 姉が嫌い、許せない。
ただでさえ、自信が持てない、自分の見ている現実が周囲の人とは違うと感じていた私は、それだからこそ、「こんなのからかっているだけだよ〜」「かわいいからいじめたくなるのお〜」「お前がいやだって言えないから悪いんだぞ」と言う理由で、クラスの女子からものすごいいいようにされまくっていた。
 姉はといえば、助けなんか期待していないけども、あのくそ姉!でも、「お前の話なんかききたくねえんだよ、耳腐るだろ!」とかひどすぎる。たとえ彼女が女子高で辛い思いしてようが。そして姉のもともとの性格、自分の経験だけが正しいと思う、あのぶったな性格のために私にアドバイスと称して「ああしろこうしろ」「あれしなさいこれしなさい」の連呼。おまけに「お前はばかだ、うける、世間では通用しない、皆の笑われ者」をつけての助言。
 彼女の助言すべて実行した私は、ものすごくちぐはぐだった。そんなちぐはぐさに更に拍車をかけて人のなめられ、「いじり役」と称され、ひどい暴言はかれまくった。
 操り人形じゃないと、人を自死に追い込むもしくは人から殺されると、イメージとして思い込んでいた私は、男の性欲の刷毛口になろうとし、女子のサウンドバック役になろうとし、世間でいう「下存在の子」の更に下になり、その子のかわいそうなその子のプライドを守ってあげようと走った、奔走した。
 子供は嗅覚の達人、ただただそういう表面的におどおどし、何されても私には現実検討能力持っていても、それをだせば人を壊すと思い込んでいるわけだから、出せないで、相手の思いなりになろうとしているから、それはいじめられの格好のねただったようだった。
 かもねぎですね。
 そして家族はといえば、そういう暗い話は一切なしの、普通の人がすることを心ともなっていなくてもしないといけない家族でしたから、家族は世間話は大いに出来る、でも、それ以上は突っ込めない家。そして父の人格変わるくらいのすごい怒りと憎しみと悲しそうな姿。
 でも、あっさり死んじゃった。信じられないのに、時だけたってしまった。自死かあ。56歳だった。
<1465> ぺあ(FB注意) ■2008年02月24日 日曜日 15時15分41秒
私は小学校5年の春のあの日から、時空が捻れた。
ずうっと、自分は耳が聞こえなくなるって思っていた。Nさんから入れられた虫のこと。ずうと、その日から「普通の子」を周囲に演出しながら、本当の思いは自分ひとりのときに出していた。
 それから、あの年の夏には、毎日右耳のありのことと、それから、左の頬の手術跡が再発して皮膚がんになったと思っていた。毎日そんなことを考えていた10歳の頃。いや、11歳。そのうちに毎日あまりにも心配で、ため息つきすぎて過呼吸にお風呂にはいるとなった。それでも、いえない、この家では私は「両親のために順調路線の子供版成長」を演じ続けなければいけない。
 お父さんの方がかわいそう。お姉ちゃんもお母さんも。私は分かっている、私はずるい、人の幸せを吸って生きている。だから、父は寂しそうなのだ、姉は常にいらついているのだ、母は泣いているのだ。私のせいなんだよね。おりしも、丁度ある女Nさんに目をつけられ始め、いじめられていた頃だった。「OOO!」って呼び捨てにされ、「いやだってきちんと言いなさい!」とか「私があなたの先生役」とか言われていた。マラソン練習で私が他者よりも一周遅いと、その子に「これはお仕置き」とか言われ、腕をつめとつめで皮膚がべろべろになるくらいつねられた。ねじりあげられた、うでを。「悲しい痛み〜」とかすんごいにやにやしながら、私をつねる、ねじり上げる。その子が中心になると、なぜか女子の間で私攻撃が始まった。「いやだってあの子言わないから奴隷にしちゃおう」だとか、「お前のせいだ、全部」だとか、その頃になると、そんな役回りのおかげで、他者すべてにしたにみられ、何をされてもOKな子のようになっていた、先生も姉も両親もすべて私にはそういうあてつけ役になっていた。それは私の被害妄想だったのだろうか?でもそういうおどおどした態度に喜び勇んで私に来た人もいる、姉には散々ばかにされまくっていた。神様私は姉を許さないと生涯後悔するのでしょうか?車の運転免許取った私に「お前に取れるとはね」と言った姉、こんなにあんたを思っているという理由で私に心配だから、ばかだから世間知らずだからという理由で「ああしなさいこうしなさい」と姉の世間で通用している姉の正解を押し付ける。
 私は未だに許せないよお。
 そして父は自死した。でも、父が亡くなったと知ったとき、一番に思ったこと。「あああこれであの嘘演出上手くいっている家族演出をしながら、行く、母の実家に見せ付けるあの演出しながら、行く姉の結婚式ツアーに行かずに済んだ、これでもういいんだ、行かなくて済むんだ」これだけ、これだけを父の死を知り私は思ったの。
 もしも父が死ななかったら私は姉の結婚式ツアーの新幹線の中でリストカットをしていたと思う。ずっとこの家はおかしいと思ってた。でもおかしいって言おうとすれば壁が立ちはだかる。言えない。いえないのは自分のこの意気地のなさとしか思えなかった。こんなにお金に不自由なく育てていただいた私が、何でこんな風に思うのか分からなかった。でもいっつも他者からがけの上にいらっしゃって、常にかわいそうで、自分の問題をどうにもできなくて、私だけはその人のプライドに触れずにさりげなく助けてあげられる存在だと思っていた。だから、人をそういう目でしか見えなかった。ずっと。そして、小学校中学校ではそんな私の態度雰囲気に、多くの問題抱えた、しかも人にどうにかしてもらおうと思っている人が集まってきた。愚痴だけならいいよ。でも小学校時代はその子に暴力をものすごい振るわれた、上で書いたように顔にありをつけられた。そしてその蟻が私の耳の中にはいってしまった。現実が分からない私には、すごいその子が嬉しそうだから、今現実に何が起こっているのかわからなくて、私、でも草取り授業の前にその子に言った、その子がいて、私は今でも鮮明に覚えている、I川先生がシャベルをでかいのを持っていた、先生がいて、うっさいがきがいて、草取りして、その前にNさんに言った、「今私の耳にありはいったよね?」死ぬほどの勇気を出して言った。そしたら、その子は私を見てものすごい嬉しそうににや〜って笑いながら「OOOOの耳聞こえなくなるかも〜。鼓膜が破れるね。頭の中にはいってしまうかもよお」ってつぶれた鼻のきったない顔をにやにやさせて言った。そこから、私は現実が歪んで、時空が歪んでしまった。死んでも母には言えない私だった。でもあの時から私はよくいじめられたけども、あんなにショックなことはなかった。ただただ順調に育っているバージョンの子供として見せ付けるようにして生きてきた気がする。本当の気持ちは奥底で、吐き出せるのは日記の中でだけ。誰もいない、そう思っていた。大学時代初めて自分を出せそうって思えて、過去の洗い流しをした、そうしないといけないと思った。そして過去の象徴でもある学校にも再び行った。ただただ子供なんかどうでもよかった、ただ助けないととは常に脅迫的に思っていたけどね。でも、結局いじめの研究なんかしても私の家族のこの意味のわからないことは理解できなかった。
 私はまだ私の研究が自分を隠している、まだ足りないんだって思った。だから、まだ研究しようと思った。そして上に進んだ。そしてまた姉の結婚式で恵まれてうまくいっている、仲いいはずのそう周囲親戚には見えているはずの一員の私は自分の心出てくる湧き出る怒りくやしさを自分の腕にだけカッター向けてだそうと思った。この世から私はこの思い、持ってはいけないこの思いをそれでも殺せない、だってそれが私だから、でも父や母にこんなに何でも叶えていただいて、申し訳ない、そう周りにも言われ続けてきた、実の姉の結婚なんか本当は全く嬉しくもない、あのむかつく今でもばかにする、煮えたぎる思いしかもてないくそ姉のなんか、かってにすれば、てゆうかそのときはお前の幸せなんかぶっ壊してやりたいくらいに思っていた。こんな思いはもてない、出せない、だって、仲いいはずの家だから。そんな顔出した暁には、ばれる。私は壊そうと思った、本当の感情は。リスカしよう、そしてトイレから出たらまた演出しよう、それしかないと一週間前に思った、でも自助グループで本音出してからにしようかしら、怖いよ怖いよ。それが本音。でもその一週間前の日に父が自死した。父は躁鬱だった。双極性気分障害だった。はじめて分かった。そうだったのだ。ずっとずっと期間付きで人格変わるくらいイライラしまくる父。母に当たる父。どうにかしようと必死だった私。やっと、理解した。ずっとずっと分からなかったこと、それが父の自死で。わらちゃった。人がそう思おうがこれが私の現実だった。
<1464> かえる ■2008年02月23日 土曜日 00時23分13秒
父は自営業、兄はトラックの運転手、弟は飲食店などへの配達の仕事、…みんなだいたい一人でこなす職種だ。うちの家族はまわりとうまく距離をとって働くのが苦手なんだろうな…それは私もおんなじだ。家族環境の影響があるんだろう。個人主義のところが多く、足並みを揃えるとか、和気藹々とやるなんて想像できない。親切にする、優しくするのは当たり前に私の中にある感情で、基本的には父も母も弟も祖母も、まわりの人達に優しい。けど、やっぱり、どこか何らかの螺子が欠けてるんじゃないか?集団社会の中では生きづらい。
<1463> ゆうこ ■2008年02月20日 水曜日 18時52分07秒
私はかわいそうだなあ。好きな人に好きになってもらえなくて、ずっと小さい頃から望んできたのに。自分を殺して
もういいかげん解放してあげたい。
私はそんなにだめな子でしょうか?そんなことは無いと思います。
私をだめな子と言ってるあなたはだめな母親です。そんなこと思いたくないからもう言わないで下さい。成長して下さい
<1462> 真名 ■2008年02月19日 火曜日 18時43分30秒
うちの家族はバラバラだ。
でもつながっているような?
・・・どっちなんだろ?
そんな家族。

昔よりはみんな勝手に自分らしく生きているし、本当の意味で仲良くなったし、少しは家族らしい。

でも、何かがスカスカで、足りない気がする。

それは何?

私がACから回復して、親のためにではなく自分のために生きてるし、好きなように自分の生きる道を生きてるし、それが親としては正しいと思っても、何か私が家から出て彼氏と同棲することによって、家族のメンバーの生き方も少しずつ変わってきたからなの?

もう私は、父や母の間違った教えには背を向けているし、嫌なことは嫌というし、パパやママの「いい子」ではないのよ。

慰め役も、調停役も降りた。

今思うと、(当たり前だけど)ACは、子供であるが故になるんだな。

大人になった今じゃ、機能不全の家族にいようと「自分は自分」って突っぱねられるもん。

親になんて非難されようと、スルーできるもん。

思春期よりも、社会に出てからがすごくつらかった。
対人関係でうまくいかないと、全部私の性格がいけないんだと思ってたもん。

そんなわけで、人間関係がうまくいく本とか精神世界の本とか読み漁った。

でも、根本的な解決にはならなかった。ACのせいなんだと気づくまでは。

自分と同じように悩み、苦しみ、生きづらさを感じている人はいるんだと気づいたとき、自分を責める気持ちはなくなったし、クリニックに通って直していきたいと思うようになった。

(今は行ってないけれど)、1件目、AC専門のクリニックに通って、言いっぱなし・聞きっぱなしのミーティングに参加したことは本当によかった。

最初はグループ恐怖とパニック障害のせいで途中退室なんてこともあったけど・・・。

父親なんてACのことも境界性人格障害のことも、ほとんど理解していないと思うけど、私が苦労して生きてきたことや、今もつらい思いをしながら懸命に生きていることを認めてくれていると思う。

たくさん反逆を起こして、迷惑も心配もかけて、ようやく私のことを解ってくれたのだと思う。

母親だって、私のことがわかってきたのは最近のことだという。

今では私の話を真剣にしてくれたり、共感したりして、支えてくれる。

母には精神的にも身体的にも虐待されたけれど、母は今そのことを悔いて、私のために精いっぱいのことをしてくれている。
だから感謝している。

父は無口で何を考えてるのかあまり判らないけど、きっと自分の育て方にも失敗があったのだと考えていると思う。

父とはほとんど会わないし、言葉も交わさないけれど、今まで経済的に支えてくれたことに感謝している。

お金を稼いでくるっていうのは、簡単なことじゃないから。


父と母の仲は良くもないけど悪くもないっていう程度に見受けられるが、本当のところはわからない。

たまーに父が母の愚痴をこぼすのが嫌だけれど、コミュニケーション不全なのは私のせいではないし、父・母・おばあちゃん、うまくやってくれーって感じ。

お互いの弱さを認めろ、っていうのも父へのメッセージとして送った。

私は今家族と離れた所にいるし、だからこそ、うまくやってほしいというのが願い。
<1461> アーネスト ■2008年02月18日 月曜日 10時05分39秒
結局、持つ必要の無い役立たずの罪意識に駆られていつも、動いていた。自己憐憫臭漂う家の中で、それこそ、みんながみんなが「私がこの家で一番かわいそう」っていう競争をしていて(笑)。そういう自己卑下的提示っていうのは、一種のコントロールなんだなって思った。本人が意図しているかないかに関係なく。「救ってよ」という要求を、ある意味でたたきつけているんだって。救いたいっていうか、中学のころは、本当に家族が平和になってほしい、仲良くなって欲しいって真剣に考えてたよね。今、思うとみんながみんな「私が一番かわいそう」ってやってるわけだから、そんな人たちの集まりが仲良く平和にやっていけるはずないんだろうけど。だから俺の中での −母は死んだから関係ないけどー 兄に対してずっと罪の意識を持っていた。なんかさ、比較されて、俺が優遇されて・・彼はそれにたいして不満たらたらで。そういう彼の被害者意識って俺を傷つけるんだなって。俺が遠まわしに裁かれてるようでね。いい、俺は悪者ってわけじゃないけど・・・・罪の意識はあるなって。まぁそういう関係が辛くて外に救いを求めるんだけど、そこでは今度は俺の被害者意識の表明が始まるから、みんな離れていくか、やっぱり同じ匂いのする被害者みたいな人がよってきたよね。

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This script written by Shintaro Wakayama.