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私たちの物語 - 家族過去ログ No.7
メッセージ数:140件

<140> あき ■2003年12月26日 金曜日 16時36分04秒
 私が周りの人の目を気にするのはどうしてだろうと思った。考えていったらひとつの出来事にたどり着いた。確か、小4の夏休みだ。私は、なにをやっても上手く出来なかった。それでも良いと思っていた。夏休みのある日、学校から出た課題帳の算数をやっていた。するとお母さんが横から見てきた。そして答えがほとんど間違っていて怒られた。その時に、「人より出来るようになれと言っているんじゃないの。人並みに出来て欲しいの」と言われた。それから私は、人と同じように出来ないことを恥ずかしいと思うようになった。いけないと思うようになった。人の目が怖くなった。そして、親の理想の子供を演じるようになった。本音で話すのが怖い。ACかもしれないと言うことも怖い。だけど親を嫌いになれない。どうすればいいのだろう。
<139> シャローナ ■2003年12月26日 金曜日 02時24分59秒
父親が家に帰ってきても、お互いに挨拶をしません。
同じ家にいながら他人のようです。
喫茶店とかで知らない同士が空間を共有しているってだけの感じ。
だからといって何も感じていない訳じゃないし、
そんなことはできるはずかないから困るんです。
父親が鍵を開ける音で始まる緊張感。
父親がそばを通ると「何か言ったほうがいいのか?どんな感じて接すればいいのか?何?何?何?・・・」と察し続ける私。
いつからこんなことプログラミングされてしまったのだろう。
一方父親と言えば、ただ自分勝手に動いている。
私の顔も見ない。無視しているとしか思えない。
父親が何を考えているのかまるっきりわからない。
こんなの父親の役割はたしているとはいえないよ。
正直、異様な家族だと思う。
<138> なな ■2003年12月20日 土曜日 13時15分29秒
自分はACって言えるのかな?
最近うつ状態が続いてます。コレで3度目かな?
ネットサーフィンの末、ココに辿り着いて、でも、両親から愛情は貰っていた。
少し気が付いた事は、私は「分かりづらいイイコ」だったのかな?
兄はおっとりしていて、父に「グズ」って言われてた。
私は、「一番になれ」「勝て」「上手くなれ」って言われてた。
ローラースケートを買ってもらい、いっぱいいっぱい遊んで、他の物に興味を持ち始めると「最後までちゃんとやらない」って言われた。
嫌だった。
他の物を始めるた時、上手く出来なくてやめたくなるとまた、「何一つ最後までやらない」って言われた。嫌だった。
お兄ちゃんみたいに怒られるのは怖かった。嫌だった。
テストでいい点を取ってきても、「100点取れ」って言われた。
お母さんはいい点でも悪い点でも何も言わなかった。
余計なプレッシャーをかけたくなかったから?って今は思えるけど、たまには誉めて欲しかったな。
小学生〜中学生では、「ななちゃんは自分で何でもやれるから」って言われた。
お兄ちゃんみたいに「グズ」って言われないように、「自分でやれる子」が普通になった。
今は、お兄ちゃんに申し訳ない。
お兄ちゃんは私と比べられて、私よりももっといっぱいいっぱい「嫌」だったよね?
悲しかったよね?
でも、今、私も悲しいんだ。
一番じゃなくても、上手く出来なくても、ぎゅってして欲しかった。
少しでも良いことした日は、「良くできたね」って誉めて欲しかったんだよ。
イイコじゃなくても、好かれたかったんだよ。
だからかな?わざとお父さんの嫌いな色の服を着たり。
でも他の人には、とっても似合うって言われるんだよ。
この前電話で「信頼してる」って言われたの、重いな。
<137> ねこ ■2003年12月20日 土曜日 02時21分47秒
この家は居心地がわるいと母にいった。
そんなことないといわれた。

いいか、わるいかの感情もわたしには決定権がないのか。
だから実家を出て行かれるんだよ。
それをいかにも、ムスメの自立を応援するけなげな母になりきってさ。
挫折して還ってくるのをまっているんだろ。

絶対かえらないからな。風俗やっても生活保護うけてもかえらないからな。
あの家は、もうわたしの家じゃない。
わたしはあんたの夫の愚痴ききマシーンじゃない。
<136> MARU ■2003年12月19日 金曜日 03時16分09秒
私は、母のアクセサリーだった。
病的に、才色兼備と心の優しさを要求された。

我慢に我慢を重ねて、ずっと演じてきたイイ子。

本当に欲しかったのは…
と、気付いた時。

私を甘やかし放題に甘やかし、自分の寂しさを埋めたいだけだった、父の愛情。
私は、心の底で、それを待ち望んできたのだ。
もう一回、甘やかして!と。

私に、本当に愛情を持って接してくれた大人は…。
学校の先生や、親戚、会社の同僚や先輩達。
時に迷惑がられながら、そんな他人に、少しずつ育ててもらってきたと思う。

けど、本当に欲しいのは、お姫さまみたいに、ただ私を猫可愛がりしてダメにした、父の、あの歪んだ愛情。

こんなにダメな人間になってしまったよ。
我慢に我慢を重ねるか、あるいは何一つ全く我慢できないか。
自分の声が、聞こえない。
飢えたお姫さまの声しか、聞こえない。

ダメだってば。
お姫さまじゃ、生きていけない。
70近い父は、40近い私に、今だお姫さま扱いだ。
もう、頼っちゃいけない。
なのに、卒業できない。
<135> まぁ ■2003年12月17日 水曜日 22時30分47秒
やっぱり言われた。
お父さんの家は家族ってものを学べなかったからね・・・。
お母さんの家は貧乏だったから、お米を配給してもらうために1歳の頃から田舎へ預けられてね・・・・。

それはそれで、大変だったと思うけど、
それと私は関係ないでしょう。

と言ったら、母親は黙っていた。

なんだ。
これだけの事を言えば良かったのに。どうして言えなかったんだろう。
でもちょっと違うのは、
もうちょっと前の私だったら、
「ACの本に、そういうことは関係ないって書いてあった」と言っていたと思う。
そう書いてあるから、誰かが言ったから、私はそう思ったと。
そう言わないと反撃されそうで怖かったんだと思う。
私は自分の意思で、誰にそそのかされたのでもなく、こう思います。と主張すること。

私はACです。
「そんな本を読むのはやめなさい!あなたはそんなんじゃないの!」と言われたりしたけれど。
私はACです。
あなた方に決められる覚えはありません。



<134> 埴輪 ■2003年12月15日 月曜日 01時47分00秒
父子関係は、ちょっと変わっている。
お互いに、家庭内のことで報告書をつくることがある。
まるでビジネス文書のような文面。
でも、これがお互い精一杯の、コミュニケーション。
事務的な連絡って大事だな。
「私はこれだけできる」「できない」「あなたにここまでやってほしい」
そんなことが、間接的に伝わるわけで。
今の私にとって、コミュニケーションっていうのは
事務的な連絡をきちっとすることだ。

ただ一つ、宣言をします。
もしあなたがまた暴力や暴言を吐いたら
わたしはコミュニケーションを放棄します。
<133> na_o ■2003年12月13日 土曜日 21時55分11秒
この苦しみを全部吐き出してしまいたい
そしてすっきりとしたら新しい自分がそこにいるようなそんな幻想を思い描く
今から思えば母に対する屈折した感情は物心がついたころからの長いお付き合いだったのですね
おかあさんには人と比べられることがどんなに悔しいことかわからない
それが自分の兄弟だったらなおさらだ
けれどあんたはいつもいつもわたしより弟をひいきして可愛がってきたね
まだ8歳ぐらいだったかな
あんたは私を毎晩のように問いただしたり激励したりしていたよね
その度に泣かされたたかれていたような気がするんだけれど、あんまり覚えていないんだよね
ただ薄暗い部屋であんたの横に座って泣いてる自分の姿が俯瞰で見えるような気がする
おもにおばかな私の出来ない勉強に対して「なんでこれが出来ないの?」「○○チャンはもっと出来るんでしょ?」とか「もっと頑張りなさい!」とかそんなことを延々と言われていたような気がする
もちろん嫌だったけれど、この時間だけはあんたを弟から引き離して独占できる
、私のことに一生懸命になってくれるおかあさんに嬉しい気持ちも抱いていた
なんでこんな偏屈な愛情を喜ばなくてはならないのか
受け入れてもらいたいのに受け入れてくれない人に受け入れてもらおうと必至になる私はそんなことから作り出されたのかもしれない
それなのに向こうから親しくしてくれるのにそんな人はこちらから避けようとしてしまうのはどうして?
どうしてこんなに生きずらい人生を送らなくてはならないの?
わたしはあなたを憎む
でもいつか条件抜きで本心から私のことを受け入れ愛してくれることを
いまでもココロのどこかが求めてしまう
このココロごまかして生きていかなくてはならないの?

こころのもやもやがいつまでも晴れない
毎日が虚しいままなんとなく時間が過ぎるばかり
このまま年をとってどんな老後を生きればいいの?
そんなに不幸せそうなあんたを見ていると人生になんの楽しみも喜びも感じられないんだよ!!!!!!!!!
<132> N ■2003年12月10日 水曜日 02時03分51秒
131の続き。どうしてみんな比較するのか。どうして私という人間とか過程を見てくれないのか。結局、どれだけ頑張っても気にもとめてくれなかった。妹を越す結果を残さなければ、認められないし、存在にも気づいてくれない。進学の時も、先生から「絶対落ちる」と言われた学校に合格しても、短大は学校のうちに入らないのか無視されて、就職の時も、大企業のOLにコネなしで採用されても、親戚から「おまえに勤まるのか?おまえが働くなんて信じられない。勤まらない」と言われた私。自分なりに努力して「私も頑張ればできるんだ」って初めて自信が持てた矢先に、祝いの言葉ではなくて、「信じられない」だなんて。おかげで、自分を表現する術を身に付けることができずに、今も、苦しんでいる。私はなんなんだろう。結婚する時もそうだった。年の離れた人と結婚すると言ったら、「働ける年数が限られてるから生活が大変だ」とまるで、また貧乏くじを引いたみたいに言われて。結婚6年目に入るけど、子供はまだいない。案の定、私のいないところで親戚中が母につついているから、母が私をせかす。「あんたは手に職もないんだから、子供でも産みなさい。子供を産まないと一人前に見られないよ」。もう、たくさん。産んでも親戚中で孫自慢大会でもするんだね。妹も子供はいないが、教師という職があるから何も言われていないみたいだけど。手に職のない私は子供産まないなら、用なしみたいだ。派遣で働くことを話したら、「そんな中途半端なお手伝いみたいな仕事」と言われ、ボランティアをしている話をすれば、「人の世話をしてる場合じゃない」と怒られ、サッカー観戦ばかりしてることを話せば、「そんなミーハーなことにおぼれて」と飽きられ、作ったパッチワークの作品を見せれば、「家でそんなことに夢中になってるから太るんだ」と言われて、そんな感じで私は何をしてもいまだに文句を言われ続けてる。私のすることは親戚に自慢できないもんね。平凡すぎて。もう、誉めてくれたり、認めてくれなくてもいいから、けなすことだけはしないで欲しい。最近、実家へ自ら電話をすることを控えるようになった。久しぶりに連絡を取ると親戚の結婚や出来事が事後報告される。「知らなかった」と言うと「えっ、言ってなかったっけ」とあっさり。今度の妹の海外行きの話も夏に持ち上がってたことなのに、結局、年末まで教えてくれなかった。妹も話してくれなかった。もう、このままどんどん離れるしかないのか。そんなことをされても、親や妹をどこかで大事に思っている心がある自分がもっと嫌だ。人間は生まれてくるのも1人、死ぬのも1人。常に言い聞かせては悲しく思う。今、最も理解してもらいたい夫にでさえ、悩みを打ち明けるのがこわい。唯一、本音を言えるのは今飼っている猫。中学の時の休日を過ごしたときのように、猫と一緒にいることが一番ほっとできるかもしれない。互いに干渉しあうこともないのが楽と思えるのが、心地いい。
<131> N ■2003年12月09日 火曜日 20時09分24秒
私と妹。社会人になるまで私達は両親に何不自由なく育てられた。私は元々超マイペースで人より何歩も遅くを歩いているような子供だった。妹は全くの逆で、何事もすることなすこと早かった。物を買ってもらう時、あれこれ迷う私、「これっ!」と言って、もう既に手にしている妹。私は小学校の低学年はいじめっこだった。校長室に呼び出された。転校していじめられっこになった。長くは続かなかったけど。成績、存在、全てにおいて、中の中。可もなく不可もなく。運動は好きだった。バスケットもソフトボールも。妹は、成績も運動もトップクラスで、年に1回は学級委員になり、運動会の徒競走の学年の新記録を塗り替える、年に何枚も表彰状をもらって帰ってくる。成績表は言うまでもない。ここまであからさまに違いが出ても両親は口ではっきりと比較はしなかった。でも、学校の先生は私にはっきり言った。「妹さんは足が速いのにどうしてなの?」同級生からも「妹さんはすごいねー、なのにお姉ちゃんは何でだろうね」親戚は妹としか話をしなかった。お正月などは、私は小さないとこのお守りばかりしていて、妹も参加している親戚の大人達の話の輪の中には入ることを許されないかのような雰囲気だった。妹がバスケットの小学生の全国大会に出場することになった時からついに両親も中学生の私を家に置いて応援に出かけるようになった。私の休日は家でペットの犬や猫とお留守番として過ごすことが多くなった。思春期の私はグレるといったこともなく、テレビばかり見ていた。それしかすることがなかった。田舎なので遊ぶところがなかったのもあるけど。
両親はよく私達の目の前で喧嘩をしていた。母が泣いて耐えている姿を何度も見ると、私までが壊れるわけにはいかなかった。それが私の反抗心を常に抑えていた。反抗心どころか、泣きたくなる気持ちも抑えていた。友達にもこのことを悟られたくないから、常に明るく振る舞っていた。吐き出すところはどこにもなかった。
何もかも閉じ込めていた。
私も妹とよく喧嘩をした。妹は口が達者で、しかも理詰めでかかってくるので、頭の回転遅い私はとてもかなわなくて、いつも負けた。最後のいつもの台詞、「お姉ちゃんは私にはかなわないんだから」泣いても、ほんとのことだからあきらめた。
高校進学も妹は進学校、私はその下のクラスの高校。私は塾に通い、妹は塾に通うことも無く、文武両道で、大学も私は短大、妹は超有名私立大学を5校受けて全て合格。そして、私は普通のOLに、妹は教師に。早く社会に出た分、親の負担は私に関しては軽かったが、親は妹にはその分費やすことができて私に言った言葉、「あんたは親孝行だ」それを聞いて、親が私にかけてくれたお金は短大の学費までにしてもらおう、あとはバイトして自分で稼ごうと決めた。そんな親心を知らずか知ってか、妹は下宿代、生活費、卒業旅行代も妹自らねだっていた。姉として言うべきかとも思ったが、自信がなかった。結婚も先をこされて、ようやく私も結婚して、今それぞれ家庭を持っている。そして、妹は夫の海外赴任が決まり、妹は再びこの正月も親戚の話題となり、普通に平凡に生活している私は蚊帳の外ならまだしも、親戚達の無言の目が私を針のむしろにするのかと思うと、昔の子供時代がよみがえってくる。いとこたちも国公立大学、有名企業に入社して自慢しあう親戚の中にはもう入りたくない。
<130> まぁ ■2003年12月09日 火曜日 19時40分06秒
母親は分かってくれたのだと思ってた。
でもたまに父親のことを悪く言うと、「またそうやって。何で言うの?もういいじゃない」と言う。
母親の親友に電話し、「ちょっとしたお嬢さまみたいな生活をさせているのに、そうできるのも父親のおかげなのに、どうしてそんなことを言われなければいけないのか」と愚痴を言っていたと知った。
やっぱり、無理だったんだと思った。
家族に理解を求めてはいけないと、何かに書いてあったのに。
その母親の親友にも言われた
「無理して出て行くことないんじゃないの?家だって広いし、ご飯を食べさせてもらえないわけでも、今毎日大声出されたりされてるわけでもないんだから」
「でもあの人が、機嫌よく話してくるときほど、私は恐怖を感じるんだよ。それを耐えなきゃいけないの?」
「当たり前でしょ。親なんだから。育ててもらったんだから」

もう、ダメだと思う。
やっぱり、普通の人に、私の気持ちは通じない。
誰に話しても私が変人扱いされるだけなんだ。
母親にも、もう話せない。
死にたい。
でも死ねない。
そこまで勇気ない。
どうして分かってもらえないんだろう。
どうして簡単に、「世の中みんなつらい思いしてる人はいっぱい居るんだから」といえるんだろう?
私はそのせりふ、絶対言ったことない。
「世の中には死にそうな人もいるんだから、体の一部くらい事故でなくなっても」
「世の中には殺されちゃう人もいるんだから、レイプの一回くらい」
「世の中には手遅れの人だって居るんだから、ガンのひとつくらい」
って言ってるのと同じだって、どうして分からないんだろう。

家に居場所がない。
「せっかくお父さんとお母さんの仲はいいんだから、それくらい」
じゃあ私が死んだほうがいいんじゃないの。
仲良しだけで生きていけばいいじゃない。
もう私にかまわないでよ。
私を自由にしてよ。
もういやだ。
疲れた。
叫びたいのにできない。
こういうとき、私は自分のしたいこともできないんだと思う。
普通の人が聞いたら、「じゃ叫べば?」といわれそうだけど。
それができる人は、こんなことにはならないんだろうな。
<129> j ■2003年12月06日 土曜日 22時14分28秒
親の顔色を気にして生活するのは疲れた。母親の声の調子を伺って俺自身の防御体制をとる。自分の考えを一切無視して、嵐を過ぎ去るのをひたすら待つ。そして疲れた体と心を一人で癒す場所とかもわからず助けてくれる場所もわからず、ただ痛みを過ぎ去るのを祈っているだけ。そしてまた嵐が来る。今度は夫婦喧嘩だ。大荒らしだ。茶碗は飛ぶ。包丁は飛ぶ。おやじがばばあに殴られる。泣く。世間のやつらは楽しそうに飯を食っているのに、俺の家はつめたい弁当だ。もう疲れた。もう嵐に耐える力はどこにもない。
<128> そら ■2003年12月04日 木曜日 16時55分50秒
家族の問題。
今まで問題は父だと思っていた。
もちろん、父との関係、父の存在が私を悩ませ、生きづらいと感じさせているのだがそれだけだろうか。

問題、特に家族の問題は相互関係が大きく影響を与えているし、その中で起こる。
だから、きっかけではあっても、誰か一人が原因で、その人だけのせいとは言えないのではないか。
そう思うようになったら、今はとても仲が良い母のことも気になってきた。

依存的とも言える私と母の関係。
「的」とつけるのはまだ認めたくない自分がいるからなのか。
とにかく私と母は仲が良い。
母は私にとって「母」だけでなく、私は母の「親友」であり「同士」である。
というよりも、そうありたいと思う私がいるし、そうあらねばならないとなんとなく思う私がいるのだ。

来年の3月大学を卒業する。
実家に戻るか、このまま一人で生活をするか今悩んでいる。
「戻らないと母が可哀想。」
「だけど、父と同じ空間で生活したくない。」
「せっかく、家を出ることで得た今の父との距離感を壊したくない。」
そんな思いが渦巻く。
近くなったら、実家に戻ったら、もう実家から外には出られなくなるのではないかという恐怖。
巻き込まれることへの恐怖。
自分の人生を生きられなくなることへの恐怖。
それを勝る母への感情。
様々な思いが私の中で交錯する。

「自分の人生なのだから自分が好きなように生きればよい。」
たしかにそうなのだが、なかなかそうできない私がいる。
親の夫婦関係に巻き込まれていることもわかっている。
正論は分かってるのだ。
知識としての自分の状態、自分の心理の歪みもわかる。
けれど、感情の前では知識は微力だ。
荒れ狂う感情の波にのまれ、わかっていても自分をさらに苦しめるであるう状況に自分を追い込もうとしてしまう。
それをなんとか止め、こうして悩ませるのが知識。
でも知識がなかったら私は何もわからないまま、ただ心の中にある葛藤や苦しみの中でもがくしかなかっただろう、これも事実。

母と私。
今はこんなに仲が良い。
これはいつからだろう。
もともと私と母は仲が悪かったはずなのだ。
よくよく考えてみる、よくよく思い出してみる。
私は物心ついてから母と激しく喧嘩をしていたはずなのだ。
喧嘩をしない日なんて存在しなかったはずだ。
なぜそんなに喧嘩をしていたのか、私が何に腹を立てていたのか、その時どんな気持ちがしていたのか、それは覚えていないし、まだ思い出せない。
きっとここを掘り下げることが必要なのだろうと思う。
罵り合い、喚きあっていた私達。
いつからこんなに仲が良くなった?
家族というのはなぜこんなに…。
考えると頭が痛くなってくる。
巻き込まれ、振り回され、そしてわかっていてもどうにかしようとしてしまう自分。
わかっているなら解き放たれればいいのに。
自分からかかわらないようにすればいいのに。
なぜに家族はこんなに子どもを苦しめる。
子どもの人生を振り回す。
離れたいのに離れられない。
自分を大切にしたのに、犠牲にしてしまう。
そうしなきゃと思ってしまう。
子どもとはなんと愚かで悲しい生き物なのだろう。
<127> なつしま ■2003年12月04日 木曜日 11時19分05秒
私の両親はふたりとも薬中でした。
特に母のほうがひどかった。
私が生まれる前からだったと聞かされています。
小学生のころには当然私も知っていました。
夜中に両親の凄まじい喧嘩の声で目が覚める。
小さい頃はこれが恐怖でした。
あるいは母が薬でラリっている姿。
どうでしょう、1カ月に何度かありました。
そうでなければ、極端に機嫌の悪い母。
毎日毎日、母の顔色を見ることから1日が始まりました。
薬はバルビツールでした。
いきなり両親の部屋を開けることは厳禁でした。
これは言われた訳ではなく、子供心に見てはいけないものが
その部屋にはあるからでした。

経済的には困りませんでした。
しかし家事を受け持っていた祖母が亡くなったときから
我が家の朝食は消えました。
小学5年生のころから母よりも先にひとりで起きて登校しました。
中学生には夕食は私が作ることになりました。
おかげで料理は好きになりました。

田舎の極端に保守的な地域。
保育園から中学まで2クラスしかないの環境で
まわりはほとんどが農家。
その中で、私は医者のお嬢さんと呼ばれ特殊な存在でした。
母の奇行はいつの間にか知れ渡っていたはずですが
面と向かって指摘する人はいませんでしたが
学校ではかなり虐められました。
転校生もない閉鎖的な学校で、私は先生や友人の顔色を見、
そして決して本当の気持ちを外には出さずにいました。
どうでもいいことでも思いとは裏腹なことを言う。
成績は悪くなかったけど、忘れ物が多く着ているものもだらしなく見えていたはずです。
6年生のとき生理になっても母に言えずひとりで処理しなければなりませんでした。
生理用品が切れていても、なかなか母に言えず、やっとの思いで「ナプキンを買ってきて」というと
お金をあげるから買ってくればいい、という母でした。
今の子供なら平気かもしれないけど、その頃の私には恥ずかしくてできないことでした。
また中学3年のころなると胸がそろそろ大きくなって気になります。
同級生の母親たちは娘に気遣い下着を買いにいったりしているのに母は無頓着でした。
私は隣町までひとりで買いに行きました。
恥ずかしかった・・・

ひとつでも気に入らないと母は感情的になりよく怒りました。
兄は要領がよく、母の怒りには触れませんでしたが、それでも母のラリっている姿を見るのは何よりも嫌で、そのたびに兄の怒りの矛先は私に向けられました。
兄からはよく暴力を振るわれ、大人になると言葉の暴力になりました。
いまでもそれは全く同じで、私は兄を憎んでいます。
兄からは「おまえは馬鹿だ」と言われ続けてきました。
その兄は大学進学を機に、以来両親と暮らしたことはありません。
いまは結婚して近くに住んでいますが、うまく親からお金だけを引き出し、利用するだけ利用して自分の家庭だけを大切にしています。

私も大学へ行くことであの環境から抜け出しました。
でも事あるごとにお金は誰が出したとおもっているのか?」と母から言われました。

私は自分を評価するとき、最低の人間だと思っています。
恋愛をしても必要以上に相手にのめり込み結局は嫌われてしまうし、友人に対してもべったりになりすぎて嫌われてしまう。
いつもいつもひとりでした。
何をしてもうまくいかない。
他のひとはあんなに幸せそうなのに、私だけが殻の中でひとり。
何度も死にたくなる。
死のうとしても怖くて、死ぬことすらできない弱虫。
何でも正面からぶつかることができず、逃げ出してしまう弱さ。
怒鳴られること、怒られることが何より恐怖で怯えながら嵐の通り過ぎるのをひたすら待つ。
一生懸命やっているつもりが、どこか歯車が狂ってうまくいかない。

でもわたしひとだけではないということを最近知りました。
何とかここから出て、私も幸せな生活をしたい!
朝起きて、あるいは夜寝るとき、怯えない生活。
これが私の憧れです。
<126> ひつじ ■2003年12月01日 月曜日 22時49分13秒
「家族」と世間一般的に言われる人たちと縁を切った。
自分を失いたくないが為に一人ぼっちになった。
それでようやく私は人形から人間になれたんだと思う。
そう考えると私は人間になってからまだ7歳になったに過ぎない。

私が親の人形だった日々、いつもこう思っていた。
「今この瞬間に気がふれて、何もわからなくなってしまえばいい」と。
そう思いながら頭を抱え込み、そして目を瞑ってみた。
目を開けると違う自分がいるように願っていたけど
いつも目を開けたときの私は目を瞑る前の私と変わることがなく、
ただただ自分が嫌だった。
家庭不和のあおりを受け、親達の顔色ばかり伺い
良い子でいなければならない苦痛。
その苦痛から逃れたかった。

気がつくといわゆる母親と呼ばれるあの人はキッチンドリンカー。
ついさっきまで普通の優しい人だったのに、振り返れば別人がいる。
その恐怖・不快感で私は押しつぶされそうになってた。

頭ごなしに私の存在を否定するのは止めて!
ちゃんと言うとおりにしてきたじゃない。
何をやっても「そんなこともちゃんとできないのか」って。
「母親」といわれるあの人が入院した時も
見舞いに部屋に入ったとたん他の患者の前でののしられ
家に帰っても罵倒され、あの時私は一体どうすればよかったの?

大学を卒業して逃げるように家を出た。
就職したので逃げるといっても電話や手紙を受け取らないという
消極的な手段に過ぎなかったけど。
おかげで電話に出るのが怖くて怖くて、今尚自宅にNTTの
電話回線は引いていない。
引いたところででる事なんて出来ないから。
でも携帯電話の普及が私を救ってくれた。

自立する為に働いた。
砕けだ心を他人に隠すようにと一生懸命明るく振舞った。
疲れた。
でも過去の自分を今の自分で塗りつぶす事が過去を忘れる手段だった。

そんな中、人間関係を築くのが下手で、何人もの人と付き合わなくなった。
というより彼らは私から離れていった。
どうして?という思いばかりにさいなまれたし、今もそう思う。
その人間関係が相手に重荷になってしまっていたのに気がつかなかった
自分がまた嫌になってる。


今は結婚もし子供にも恵まれ幸せな生活をしてる。
幸せだけど、どうしても過去の嫌な思いがふとよみがえる。
人形だった自分、人間に戻ったけど人間になりきれず
他人を傷つけた自分ばかりが頭をめぐる。
そのうち自分が今ココにいていいのかどうかもわからなくなってきた。
もう一度心が壊れてしまう前の自分に戻りたい。
<125> 埴輪 ■2003年12月01日 月曜日 02時02分01秒
おかあさんの、病室をおもいだす。
知らない人がいっぱいいるから
見舞いとかいうやつは嫌いだった。
でも行きたくないそぶりをみせると
おとうさんが
おまえはつめたいやつだ
というから
しかたなく見舞ったんだ。
<124> きりん ■2003年11月25日 火曜日 02時27分08秒
お姑さんが 「よく独りで育てたよねー」って慰めてくれた。夫に 何もしてくれなかったよねって本音を言ってしまったら キレたよね。何してくれたの・・?笑っちゃうよ・・・。あなたの 心の中には 家族って無いでしょ・・。私が あなたのてをかりた事って あるかな・・・。いつも家に居ないでしょ・・。自由に 生きたいように誰の邪魔をされる事も無く・・・私 怖いから 何も言わない・・子供達の事も言わない・・。子供との距離 広げたのは 自分でしょ 私は 何もしないよ・・。嫌われたって 知らない 自分がした結果なんだから 受け止めて。
ACって解かろうともしない 実家と喋らせようとするけど あなたの思い込みで逆効果なんだよ・・私どんなに辛いか・・解からないんでしょ・・それならほっといてよ。
あなたの 周りの事何も気にしないで自由にする態度。私が何も言わないからやりたい放題だよね・・ 私 ACな自分があなたと幸せに暮らせるには 努力が要る・・私今までだって たくさん堪えてきたよ 海外で暮らした時も あなたの実家で 独りで何ヶ月も暮らした事も お正月の里帰りでそのまま 出産まで居てくれって 電話一本でそんな命令されて 勝手に海外に行っちゃって・・ホントは別の誰かが行っても良かったんでしょ?イヤとは言えない状況だと解かって電話してたんでしょ・・。あなたの存在が 私を苦しめてる・・。
子供が 独立したら 夫婦の役割 果たしたら もう我慢しない 私は私を生きたいから・・。

もう・・イヤだよ・・。
皆に イヤだ!!!って言いたい!!
父に その重たい 何にも私のこと知らないくせに何を?誰を?心配してるの。母の 自分が悲劇のヒロインで 悪いのは 全部周りのせい・・。姉のその人を馬鹿にする 目つき態度・・・悔しい・・。
私 一生懸命 生きてるのに 何で相手にしてくれないの。私独りで頑張ったんだよ・・・東京に出て 淋しくても辛くても認めてもらいたくて 必死に頑張って生きてきたんだよ。私の 苦しみわかる?全然解かってくれないね・・。知ろうとしないもんね。いつも 1対 全部。全部が敵なんだよ。
もうおしまい・・。もう誰も許さない。このまま強くなって 自分の人生、生きる・・。何で?普通に考えてみてよ・・誰も知らない場所で 淋しいし辛いし・・・。子供育てるのって 大変な事でしょ・・。誰の手も借りないで 子育てしてるの知ってるでしょ?妻が 怒らないのは 不思議でしょ?何も感じないあんた達の方がおかしいよ・・。私はちゃんとここに居るんだよ 見えてる?でも 残念でした・・・もうおしまい。
<123> hal ■2003年11月24日 月曜日 19時39分56秒
親が私のために必死になってやったことはと問えば
「(経済苦にもかかわらず)あなたの希望通りに高校、大学へ行かせてあげた」
だって。
なんか虚しくなった。
学校に通わせてくれてありがとう、なんて思わない。
私は親のメンツのために、親が誇りに思えるように
学校に行っていたんだ。

希望を叶えてあげた、って偉そうに言われても
毎朝お金が無い、お金が無いって両親が揉めている声を
聞かなかったフリしていたのも辛かったんだよ。

贅沢だとは分かっているけど、お金ではない
愛情を注いでもらいたかった…。
<122> 空色 ■2003年11月24日 月曜日 17時38分21秒
今まで家族に対して本音を言った事が無かった。実家を離れて、初めて親に手紙を書いた。返事が届いた。でも彼らは私とは違う捉えかたをしていた。これからもう本音を言う事はないだろう。姉は養女だ。その事で小さな頃親に、実の子だと見え透いた嘘をつかれ、父はおとなしく、母は、ヒスだった。姉とは喧嘩ばかりしていた。その事で傷ついていた幼い私は、学校で授業中抜け出して隠れたり、問題を起こしていた。女の担任の先生はいつも見つけてくれた。でもそのたびに母は厳しく私を叱った。本当は抱きしめて欲しかったのに。姉は結婚し、今度子供が産まれる。実家を離れていた私は、そのために帰らなければならなくなった。でも私は帰りたくない。家族の幸せを近くで見てるのがつらいから。私はもう幸せを諦めたから。でも自分が壊れそうで恐い。誰でも良いから助けて。
<121> 埴輪 ■2003年11月22日 土曜日 00時41分50秒
※わざと子ども口調で書きます。

うちは4人家族。
お父さんは無表情、ぶっきらぼう、時々殴る、ののしる。けっこう怖い。
コップとか割るじゃん。そうすると、お父さんは「お前脳に欠陥があるんじゃないか」って言うの。
そうか、やっぱりな。一度検査しないとな。…って思っちゃった。
おかげで、欠陥人間がひとつできあがりました。
お母さんは後天的な障害者。もともと、おしつけがましい。
すぐ占いの本を開いて、今月は止めなさい、来年はああしなさいとか言うの。
朝晩の読経が恥ずかしい。ウチはどっかの檀家でもなければ特別信仰しているものもない。
何かあるとすーぐ水子が水子が、って言うの。やってらんねーよ。
自分の病気も水子の霊なんだとさ。勘弁してくれよ。
自分だけでやるならいいけど、なんか高額な地蔵とか買ってんの。イキナリ。
はずかしーよ。っていうか、迷惑だろ。家族に。
こんな口の利き方するのも水子のせい??あっそう。ハイハイ。
お姉ちゃんは自己中。殴られ蹴られなじられて、仲良し。わっけわかんねー。
一つ違いなのに、私のほうがお姉ちゃんだよ。なんでもやってあげちゃうの。
だらしないからね。私の服に、たばこで穴あけたときも、なんか許しちゃったんだよね。

私の心の中から、みんな出ていってください。

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This script written by Shintaro Wakayama.