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私たちの物語 - 家族過去ログ No.32
メッセージ数:640件

<640> toa ■2005年04月01日 金曜日 02時22分26秒
どうしてこんなに愛情が欲しいんだろう。家族が恋しいんだろう。
受け入れて欲しいよ。あたしのこと好きだよって一度でもいいから言ってよ。
恥ずかしがらないで言ってよ。照れ隠しなんていらないよ。
言わなくてもわかるって思ってる?そんなの大間違いだよ。言われなきゃわかんないよ。
こんなに愛してるのにって、伝わってくるよ。でも、それは怨念みたいだよ。あたしを苦しめるよ。
あたしの欲しい愛情はそんなものじゃない。見返りを求めた愛情なんてやめて。
消えて。頑張ってるのなんてよくわかってるからもうやめて。苦しいのも知ってるから。
あたしにそんなに期待しないで。お兄ちゃんにも期待しないで。
何も悪いことしてないじゃん。どうして?何がいけないの?ねぇ。何がいけないの?
<639> toa ■2005年04月01日 金曜日 01時53分13秒
欲しいのはお金なんかじゃない。最低限あれば十分だから・・・。
抱きしめて欲しかった。中学生から今の私は抱きしめて欲しくなかった。
今更抱きしめられても何もうれしくない。いらないよ、そんな涙。

どうしてあの頃あたしはひとりだったの?遊びに行くと怒られたの?
なんでお兄ちゃんは許されるの?我が侭言っても許されるの?
どうしてあたしは大事にされないの?あたしはいらないの?
どうしてあたしの誕生日を忘れたの?お父さんも、お母さんも。
お兄ちゃんの誕生日はおっきなケーキでお祝いしてたよね。おめでとうって。

ねぇ、いらなかったの?あたし、いらなかったの?
どうして今あたしを必要とするの?いらない子なんでしょ??
苦しいよ。もうヤダヨ。関わらないでよ。
<638> toa ■2005年04月01日 金曜日 01時48分33秒
家族って、何だろう。
うちの父親は、統合失調症を患っている。
今でも、治っていない。
母は、そんな父を理解せずに今も過ごしている。
【諦め】と、言ったほうがいいのかもしれない。
祖母を、母を、兄を、あたしを殴る父。
仕事に逃げる母。不安でどうしようもなくなっていた。
覚えてない。こわかった。それだけ。
過去を思い出せない。保育園時代から小4くらいまで。
いつ、何があったのか思い出せない。
覚えてるのは。
父の怒った顔と、仕事場に助けを求めた私を無常に切り捨てた母の声。
<637> こくーん ■2005年04月01日 金曜日 00時43分00秒
『あなたは、(弟とは違って)言わなくてもわかるいい子よね。お母さんをわかってくれるわね。味方よね。お母さんは信じているから』
これが、私の頭にはまった輪っか。母の理想からはみ出ようとすると、この輪っかがぎゅうううと頭を締め付ける。中学時代から酷くなった偏頭痛は遺伝?それとも…?
<636> 虹 ■2005年03月31日 木曜日 17時52分31秒
ACというとなじみのない言葉と、まだ世の中に知れ渡っていない分野(私の周りでは)に人は「なにそれ?」という反応をする。私は家族というものが、これほど時がたっても機能不全・・コントロールとコントロールされる関係で成り立つ関係を維持していくものなのかと驚いた。私は末っ子で兄、姉がいる。
 上の二人は結婚をして子供も二人いる。家によく遊びに来る姉は、父と母と私だけの家族での生活の内容を知らない。五人家族だった頃の関係は崩れ、私は自己主張を覚えたし、両親には苦しんでいたことを話した。それで私にもようやく個人の尊厳が与えられたんだなあと実感していた。
 ところが、姉は未だにあの頃の「自分の主張ができない私」を押しつけてくる感じがする。私が「こういうことされるのは嫌なんだけど」というと、「どうしてそんなことで怒るの?」と私の怒りを軽く見る。まるで個人の意見は受け入れられない。母もそうだが、みんなのコントロールはいちばん下の私にきていることを無自覚なままだ。
 同じことを、また家族に繰り返すのですか? これほど意識下で、家族という閉鎖された空間でACを生んでいくことにそろそろ表に出してもいいのでは? 心の問題、個人の弱さの問題ではないと思う。いつもコントロールの下ではアイデンティティを育ててこれなかった子がいること、そんな子が大勢いることは無視できない。
 私は小学生の頃、うちの家族は普通とは違うんだ・・と感じていました。でも、無自覚であったか、気づいたかのどちらかなんですよね。こうして書くことができる場があることに感謝しています。私はこのような人がいることを、社会に広く知ってもらいたいと思います。
<635> sachi ■2005年03月31日 木曜日 16時07分14秒
高校生の頃,編み物を祖母に習いに行ったときがあった.
祖母は裁縫が得意だから.

いきなり思い立って,せっかく同じ町に住んでいるのだからと
学校帰りに出かけていった気がする.

祖母は教えてくれた.
昔の,なんてことはない時間が戻ってきた気がした.

数日後,祖母と母がそのことを話したらしく,
「勉強もしないで,男にあげるための編み物ばかりに夢中になっている」
という話になったらしい.

編み物を教えてくれたときの祖母はなんだったんだろう?
祖母はそんなことを思って,教えていたのだろうか?
私はただ教えて欲しかっただけなのに,
なんでこんなことになったんだろう?

母は私を罵倒した.
「だから馬鹿にされるんだよ」
とかだっただろうか?
それとも
「とにかく勉強しろ」
だっただろうか?

あの頃の私は落ち着いて勉強できる環境ではなかった.
何か目に見えないものから常に心が侵入されているようだった.
今考えてみると,それは家庭の不和と母の情緒不安定さ,
祖母たちの干渉,父の無関心…様々な要因が重なって生じた,
胸に巣食った恐怖や不安だったと思う.

自分の部屋に落ち着いていれなかったのを覚えている.
家に帰りたくなかったのを覚えている.
ただ笑って,普通に勉強している友人達がうらやましかったのを
覚えている.
「この人たちは私が抱えているものとは縁のない人たちなんだ」
「だから,こんなくだらないことで笑っていられるんだ」
と思った記憶がある.

常に不安と恐怖にさらされていたから,記憶力も低下した.
というか,覚えたくても,強迫観念ばかりが先走って,
思うようにものを覚えれなかった気がする.
人の名前も覚えづらくなった.

塾は逃げ場.
勉強する場でなくて,家庭に帰る時間を先延ばしする場所だった.
家に帰ると私は,アットホームな雰囲気作りを強要された.
部屋にいると何かにつけては呼び出され,
用意されたお茶とお菓子を食べることを強要された.
断ると,母は用意してやったのに,と不機嫌になった.

お茶を飲んでいると,そして,愚痴をはじめるのだ.
「ねぇ,さっちゃん…」

恋愛話は今では全くしていない.
彼氏と付き合っているのは秘密だ.

あの頃,家で嬉しくて話した記憶がある.
不機嫌だったな.父とうまくいってなかったから,嫉妬していたんだな.

<634> アーネスト ■2005年03月31日 木曜日 08時38分49秒
(かなりの心情吐露です。不快に思われたらごめんなさい)


僕と兄は似ている?似ているから拒否反応起こすのかな。どこが似てる?真面目なところ?兄も根はすごく神経質というか真面目なところはある。弟の自分を気遣ってくれる面もある。でも僕はずっとこう捕らえていた(あるいはそれは母の視点かもしれないが)「真面目な弟,自堕落な兄」。兄はヒッピーみたいに長髪にしてたこともあったし。あ〜もうよくわからなくなった。大混乱。
<633> アーネスト ■2005年03月31日 木曜日 07時54分17秒
いままでの人生全て,自分の意志で選び取ってきたのだと信じたい。○○家(自分の家)にうまれた以上,自分の人格に親の性格性質が混じるのは当然のことだけど,少なくとも支配されてきたとは思いたくない。全部自分の意志だったと思いたい。自分が何者かわからない。
<632> アーネスト ■2005年03月31日 木曜日 07時17分06秒
兄の気持ちがなんとなく分かるような,少し近付けたような気がする。何故,(自分から見て)あれほど居間に自分の荷物を置くのか?兄はずーっと家の中に居場所がなかった。母親が死ぬまで。多分、死んで清々しているのだろう。その反動というか,「居場所」というか自分の存在をアピールしたいのだと思う。僕も少しはそうだ。もう怒号を聞かなくて済むようになったから。

母がまだ働いていた頃,着替えのために階上に来るのを恐れていた。10歳前後の頃。万引きをして恐らく「あんたを捨てる」ぐらいのことは言われたのかもしれない。もう兄と比べて堂だ,とかいうことは無意味なのかもしれない。自分の回復に集中しよう。
<631> こくーん ■2005年03月30日 水曜日 21時41分51秒
今の母の望みは多分、こう。
『高校を中退し家族に暴力をふるい、女の子を騙して借金まで作った息子と、大学を出たものの公務員を5年で辞め、中途半端な生活をおくっていた娘が、今では・・・・。すべて一身に○○○を唱えて願ってきたお陰です』って、満面の笑みで、宗教団体の機関紙に名を連ねる…。
いかにも私の母らしい…。私が『ママは偉いね』って言わなくなったから、他のものに褒めてもらわないとねって。

そう考えると、なんだか回復する気力を奪われてしまう。私が回復した(として)のは、私が頑張ったからなの!って言っても無駄だろう。
だから、距離を置く。私の幸せは私のものであって、母の、ましてや母の信仰のものではないから。
<630> ふうせん ■2005年03月30日 水曜日 19時56分17秒
書き始めたら止まんなくって、でもこんなに長く書いてたなんて気付かなくって、ごめんなさい。わたしはここにきてよかったのかな

依存でも過干渉でもなく、安心して外に飛び出していけるようにゆったりと愛されたかった。そしてそのように人を愛したい。
さみしい
むなしい
空っぽな私
<629> ふうせん ■2005年03月30日 水曜日 19時27分43秒
私はいつも不安だった。「自分はみんなと同じに出来ない、失敗ばかりする、さえないみっともない子だ。」気付くと自分の事を諦めていた。まだ小学生の頃だ。人との接し方がわからなかった。友達を傷つけることを平気で言ってしまうから、当然嫌われた。どうすればいいかわからなかった。家の中でふつうに馬鹿にし合ったりカラカイ合っている様に外でもしただけだった。
自分に自信がないから、私は言い訳ばかりしていたし、逆に人を馬鹿にしたりしていた。母はいつも、いろいろな人の悪口を私に言った。とても憎憎しげに。聞きたくなかった。父と母は、絶えず口論していた。幼い頃は、本当に嫌だった。まったく合わない夫婦だった(最近離婚した)。父は、母には手を上げなかったけれど、母や私のように頭の弱くない、気が強くて口が達者な私の妹や自分の母親には、最後には暴力を振るっていた。父は家族全員を自分の思う通りに支配せずにいられなかった。父に反抗すると食事抜きだった。妹は、自分から‘食べてやるか!’と部屋に引きこもったが、私はすぐに何が悪いかもわからず謝って食事抜きを免れた。父に対抗する強い妹が羨ましかった。私が父の言う通りに国立大に受かってあげて家を出てから、妹と父の間は酷くなり、母から私の下宿先に何度も電話があったがどうすることも出来なかった。妹は、何度も手首を派手に切った。私の方は、大学には入ったものの、無気力だったが、初めて恋人が出来て必要とされることが嬉しくて彼にのめりこんだ。彼に会えないと死ぬほど苦しくて、逢えない日は別の人と会った。何人もキープしていた。デートに忙しくて学校どころじゃなくなった。男友達は、簡単にたくさんできた。大学に行かなくなって留年したが、父が恐ろしくて卒業するはずのまさに一ヶ月前になってやっと卒業できないことを告白した。大学に全く行かなくなって一年以上経っていた。ざまあ見ろという気持ちだった。(ついでに妹は、私よりずっとランク上の国立大に受かって一年でやめた。)
母は、全くデリカシーがなくて、私が鈍感で何を言われても仕方ないと思うのは、自己防衛なんだと思う。妹はしょっちゅう傷ついてキチガイのように怒っていた。キチガイというのは母の口癖。すぐに人をキチガイ呼ばわりする。この妹は、幼い頃のことを鮮明に覚えていて今でも父や、母や、私にされたことを恨んでいる。妹から聞く私は本当に酷い姉だった。私は、小学生高学年からしか記憶が定かでないので、妹にしたことも、母にされたことも全く覚えていない。ただ妹が憎くて仕方なかったことは覚えている。
父も母も私も妹も、みんなACなのかな?でなかったら母の言うキチガイ。
自分を信じてあげたい。自分を大切にしたい。でも出来ない。自虐的なことばかりしてしまう。足の皮をむきすぎて痛くてびっこ引いて歩いている私。何やってるんだろう。中学生のときは、まつげを全部抜いてしまった。小学生の時は、指の皮をいつもむいていたっけ。
本当の私を知ったら軽蔑されるから、親しくしてくれる人(女性)が出来ても怖くて自分から離れてしまう。本当は友達になりたいのに。何で普通に生きることがこんなに難しいんだろう。苦しいよう
<628> アーネスト ■2005年03月30日 水曜日 13時48分00秒
自助会や本で学んだ行動を,家族に対しても適用する必要があるのだろうか?それとも家族以外の場所で試したいのだろうか?自分はどうしたいのかがわからない。父には自分を傷付ける言葉を発して欲しくない。ならそう言えばいい。兄は...兄は放っておこう。

ただいずれにせよIメッセージとか,わかりやすい表現ていうのは家族問わず発していきたいかな。自分の悪い癖は,特に父の前でむっつりしていることだ。そういう自分の表情が相手に罪悪感を植え付けていないか心配だ。自分も母にされて嫌だったことなのに,それを自分がやっちゃんじゃー世話ないね。少し変えたい?かな。やっぱり家族相手だと難しいかな。今の所,境界線は保てている。でもそれとは別に,自分にはコントロールの癖がある。
<627> アーネスト ■2005年03月30日 水曜日 07時44分12秒
家族とどう接すればいいのかわからない。罪悪感を植え付けられて,嫌な思いをしてきた自分が父親にも同じことをしている。別に敵対心とか強い復讐心があるわけじゃない。でもACってわかってからなんだかうまく喋れない。一方で家族を否定する作業をしているのだから,どうしても上手くいかない。本当はこういう接し方を止めたいんだけど....イツ,どこで止めるかがポイントなのかもね。
<626> 豆だいふく ■2005年03月30日 水曜日 07時13分24秒
↓の投稿不快かもしれません。スミマセン。
<625> 豆だいふく ■2005年03月30日 水曜日 06時28分44秒
「私を裏切ったり悲しませたりした人間は必ず不幸になる。気を付けなさい。」これがマイママの口癖だった。私はついこないだまでこの言葉に縛られていた。(恐るべしマインドコントロール!)でも今ははっきり言える。
「あなたに関わった人間はあなたにコントロールされて確実に不幸になっていく」と。事実彼女と関わった男性は離婚してしまったり、事業が倒産してしまったりしている。それは彼女を悲しませたからではない。彼女のコントロールに巻き込まれてしまって身動きが取れなくなってしまうんだ。兄も同じだ。
まさに「魔性の女性」である。
<624> アーネスト ■2005年03月30日 水曜日 00時30分24秒
今、私の部屋に敷かれているピンク色(というか薄紅色)のカーペット。母親が無理やり敷き込んだものだ。「あんた,カーペット変えたげる。寒いわよね?いいから敷かせなさい」こういった「好意に見せかけた押し付け,支配」は数限りない。もともと反抗を止めた時点で,母親の愛玩動物にされていたのだから,こっちには断わる権利どころかそもそも自分が何を受け入れ、何を拒絶したいのかわからないのだから,こういう押し付けを断わるまっとうな理由が見つからない。全てが母の手の中にあるのだ。彼女が私の需要を作り出し,彼女がそれを満たす。存在しない需要を勝手にでっちあげれらたのだ。でっちあげもいいところだ。それから,得意の事後報告。何か「好意」をしておいて後から言う。やって上げたのよ,と。分けのわからないものをたくさん持たされた。給食のマグカップ入れ,体操着袋など学用品その他勝手に作られた。みんなと同じようなキャラクターものがよかった。しかし事後報告されては文句もいいずらい。大した策略だ。そして最も悲しいのが仮に私が反抗したとしても返り討ちに合っていたということが,思春期に入る前にわかっていたことだ。兄の姿を見ればそれがわかった。だから,反抗しようなんて気はさらさら起きなかった。兄の部屋には母を呪ったと思われる数々の詩集があった。それを見て私も怖かった。彼は高校時代に既に抑うつ状態にあった。言うことをきいてもダメ、聞かなくてもダメ。同じ事だ。
<623> アーネスト ■2005年03月29日 火曜日 22時40分33秒
(フラバ注意)




母の亡くなる2日前,アルバムを見て泣いた。それくらい母を慕っていた。慕っている時点で,自分がされてきたことを完全に抑圧していた。そして「慕っていた(とされている)」母が亡くなってからは,「慕うように仕組まれていた」人物を喪失したわけだから,それ相応の哀しみを経験した。それを忘れるために滅茶苦茶なハードスケジュールを立てた。それぐらい彼女は私の心の支えになっていた(なるように仕組まれた)。

今感じている憤りはすさまじい。自分を抑圧した「絵」が何枚も浮かぶ。本当に本当に嫌で仕方が無かった。「親切は受け取るものよ!!この,わからんちん」,「あんたは黙っていう事を聞いていればいいのよ!!」。身体的な暴力はなかった。でも今の自分にはこの言葉がどれだけ侮辱的かわかる。あるいは分かっている気になっているのかもしれないが。恐らくまだ記憶は埋もれているはずだ。それが出てくるのが怖い。一人では無理だ。自助会の参加数をもっと増やさないと,今の状態で過去を振り返るのは危険だ。
<622> アーネスト ■2005年03月29日 火曜日 14時31分04秒
中学や高校の部活の試合の日,水筒を見るとご丁寧にステッカーが張ってあった。名前入りの。そういうことが何度もあった。如何なるものにも。体操着,弁当箱,箸,箸箱,ナフキン,家庭科で使うエプロン,三角巾。上履き。確かに自分は昔から不精で持ち物に名前は書かなかった。でも落としたり,無くしたりということはそれほどなかったように思う。覚えている限りではほとんどない。しかし母はそんなことに関係なく,とにかくありとあらゆるものに名前を書いた。書かれた数だけ「あんたは信用してないわよ」と言われたみたいで傷付いた。そんなに信用のおけない人なら最初からうまなきゃいいのに。
<621> アーネスト ■2005年03月29日 火曜日 08時12分59秒
日曜日とかに公園や河原に出ると家族連れ,特にお父さんが子どもを連れて遊びに行っているのを見るととても羨ましい。自分が父と遊んだのは小学校の頃,家の前でキャッチボールをしたくらいだ。父がもっとそばにいてくれたら,あれほどに母子密着にはならなかったんじゃないかな?と考える。父は母子関係を切り離す役割があるって何かで読んだ覚えがあるんだけど....。幼い自分にとって執拗なまでの母親の愛情押し付け行為は,苦しかった。あれはもっと別の者に向けられるべきものなのだ,僕には必要なかった。そして悲しいことに母親には自分の真の姿なんてちっとも理解してもらえなかった。父性が欲しかった。3歳〜6歳は海外赴任。その後,10年間くらいは同居するもののほとんど接触なし。高校の頃からまた単身赴任。そして今に至る。ここ2,3年だな。父親と接して,そして父親がどんな人間かわかってきたのって。あんなに非寛容な人だとは思わなかった。初めて知った。

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This script written by Shintaro Wakayama.