私たちの物語 - 家族過去ログ No.27
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<540> トラミ |
■2005年03月12日 土曜日 01時37分00秒 |
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え〜と、久しぶりにかなりブチ切れそうです。 妹が怪我をしました。私に過失がありました。それは、認めます。 でも そこで、なんであそこまであのバカ親に言われなあかんの? 「なんであんな事したのよ!頼んでもいないのに」 って・・あんた、私の事笑わせたいの?(笑)
母親が医者で、夜遅くまで働いているのだから、長女の私が家事や、下の妹 の面倒を見るのは当然。 私は最近まで「お母さんのために」やっていた。
しかし、喧嘩の際に、私が家事をしている事を持ち出すと、彼女は「やってない!」というのだ。 禁句なのだ。 彼女は、自分に家事をする余裕が無い事を絶対に認めない。だから、私が何も言わずに(何も言わなくたって、こう思ってるだけで結構恩着せがましいが)手伝っても、労いの言葉をかける事も殆どしない。 そのくせ、「あれやって」「これやって」と言い付け、何か一つでも出来ていないと、怒るのだ。 だから私は、いつも追い立てられていた。
まあ良いわ、私が出て行ったら、きっと発狂しそうなくらい忙しくなるだろう。 その時に戻って来いと言っても無理なのだ。 そう思って、私は今日も、できるだけ丁寧に家事をする。
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<539> アーネスト |
■2005年03月11日 金曜日 20時48分05秒 |
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自分が15、6歳頃,兄は大学生で今の僕のような昼夜逆転の生活を送っていて母親からはよく「出てけ!!あんたなんかウチの子じゃない」と言っていた。兄の進学前もやはり音楽系だからといってもめていた。かわいそうに。兄はそのころ僕にいった。泣きついて。「俺が堕落したら俺を正しい方向に導いてくれ」と。ふざけんなよ!!なんで俺が一家のオブザーバーをやらなきゃいけないんだ!?
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<538> アーネスト |
■2005年03月11日 金曜日 20時23分26秒 |
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小学校3,4年の頃、土曜日の夜にお菓子を買い込んでくるのが楽しみだった。それを日曜の朝に食べていたのだと思う。なんだか自分に与えられた固有の権利のような気がして嬉しかった。でもなぜこっそりと食べるのが楽しみだったのかよくわからない。別に親がおやつを与えないとかそういうことはなかったんだと思うんだけど。
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<537> アーネスト |
■2005年03月11日 金曜日 19時09分21秒 |
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母親との記憶をもっと思い出したい。そもそも彼女はなぜ働いていたのか?それほど収入に困っているように見えなかったが。 彼女に支配されるようになったのは小学校5年くらいからかな。万引きがばれて以来。それ以来,母が仕事前に着替えるために階上に上がってくるのが怖かった。いつも謝っていた。「ママ,ごめんなさい。ママ,ごめんなさい」と。母は怖い顔をしていた。ところが中学に入り僕が真面目街道一直線に走り出すと彼女も安心したようだ。「これで危険分子,氾濫分子,異端分子が1人減った」と思ったのだろう。そっから俺自身,自分が何をしたいのか,どんな人間なのか考えることはなかった。うつ病になるまで。とにかく万引きのようなことはもうしまい,それだけを考えて生きてきた。友達も減ったし暗くなった。
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<536> アーネスト |
■2005年03月11日 金曜日 19時03分11秒 |
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母親に手紙を書いたり御墓の前で話し掛けるワークを続けようと思っているけど,やっぱり母に白羽の矢を立てるのが怖いんだろうね。怖い思いするならこっちが引けばいいっていう姿勢になっちゃう。あのワークは続ければ結構効果はあると思うんだけど,死んだ人間でもあってもやはり母親と話すのは疲れる。
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<535> アーネスト |
■2005年03月11日 金曜日 15時45分16秒 |
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ロックは低俗な音楽だ,クラシックが正統派だ。母親はそんなことを言ってきたような気がする。部分の過度な全体化、一般化。彼女は社会的な承認を受けている領域にしか手を出せないのだ。何故なら,枠からはみ出るのが怖いからだ。3歳頃,昼寝の時にクラシックを聞かされるのがとんでもなく不快だった。3歳の少年にはクラシックは厳かでデーモニッシュに聴こえた(クラシック好きの方すみません)。行儀や作法,言葉遣い,服装だけを見てその人の人間性を判断するのも同じだ。部分の全体化。おかげで姿勢はいいほうなのかもしれない。ただ一部を取り上げて全否定されるのがやなのだ。some parts are bad, but,as a whole, you are good.といって欲しかった。今までも部分否定されると全否定されたような錯覚に陥ってパニックになる。
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<534> アーネスト |
■2005年03月10日 木曜日 18時35分17秒 |
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母親(墓石)と話してから,数日が過ぎた。あの頃の罪悪感がすーっと消えて行ったのを見るとやはり効果はあったのだろう。あの次の日,出先で家族に対しても少し許せるというか寛容な気持ちを持つことができた。ただ接し方が変わったかというとそうでもなく,相変わらず構えているところはある。接し方が変わっていないから許せていないかというとそういうわけではなく,やはり完全じゃないけど許せたのだと思う。完全に絶縁するのが難しいように完全に許すというのも難しいから,とりあえず今の状態で満足している。
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<533> 豆だいふく |
■2005年03月10日 木曜日 13時46分07秒 |
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あ、思い出した。小1の時兄にタバコとお酒を飲まされた。彼はふざけていたんだと思うんだけど、私は怖くて逆らえなかった。案の定むせた。お陰で現在 酒・煙草は苦手である。お酒が飲めないと会社でやりにくいこともあった。 だから素面で盛り上げ役を引き受けたりして・・・。ビールを美味しそうに飲んでる人を見ると羨ましいよ。そして彼に言いたい「あんまナメンナヨ」。
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<532> 霧の森 |
■2005年03月08日 火曜日 23時52分22秒 |
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私は知っている。あの男(父親)が言う言葉はからっぽだということを。家族だとか、家のためだとか、血筋だとか、そんな言葉に何も入ってないということ。彼の中にその意味は存在しない。彼自身その本当の意味等知らないこと。彼自身が、そんな単語を自分の利益のためにしか使われたことがなく、そういうためだけの単語であるとしか知らないことを。 私はその鎖を断ち切っていく。
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<531> 僕 |
■2005年03月08日 火曜日 23時40分43秒 |
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先週の水曜日に仕事中に腰を痛めた。無理して頑張っていたが、次の日の朝起き上がれなくなり、二日仕事を休んだ。三日前からはお腹が痛み出して、ずっとガスが溜まっているようだ。 昨日の夜は昔のことを色々考えていて、泣いた。急にものすごい不安が襲ってきてなかなか眠れなかった。母が死んだことはまだ受け入れられないみたいだ。父は物心がついた時からいなかった。何年か前に死んだけど葬式にも出なかった。関わりたくなかった。見ず知らずの赤の他人。でも、私の人生を狂わした一人だ。
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<530> こくーん |
■2005年03月08日 火曜日 05時06分43秒 |
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母から優しいメールが届く。 どうして?この前、あんなお互い最悪な気持ちで別れたでしょう。 この1ヶ月半、私はあなたに何の連絡もしなかった。 だって、あなたにかける言葉は浮かばない。 だって、あなたにどうしていいか分からない。 優しいメール。 でも知ってる。 なかったことに、したいのね? また本質的なことからは目をそらして、流してしまおうって思ってるよね?
私はそれを、やめたの。 怖いよ。不安だよ。 全く知らないこの土地へ引っ越してきたばかりのことを思い出す。 あなたが出かけるたびに、帰ってこなかったらどうしようと思った。 事故にあってしまったらどうしようって思った。 あなたが帰ってくるのを不安な気持ちで待っていた。 あなたがいなくなったら、どうしていいかわからなかったから。 あの時、決定的にあなたに依存したのかもしれない。 今、私は切り離しています。 あなたと私とのいびつな鎖を。 だから、優しい言葉はかけないで。 勇気がなくなりそうだから。
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<529> こくーん |
■2005年03月08日 火曜日 04時48分56秒 |
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もともと、枠から出られないタイプだったことは否めないが、 両親が離婚してからはその傾向がより強くなった。 自分の家庭が『母子家庭』と呼ばれるのは承知していたけれど、 『欠損家庭』と呼ばれることを知ったときは、なんだか悔しかった。 自分が悪いことをすれば、 『ああ、やっぱり、欠損家庭の子は…』と言われるのだ、と思うと 怖かった。 校則を守った。先生には敬語を使った。いつも正しくあろうと思った。 でもそうすることで逆に劣等感は強くなっていった。 パーフェクトにはとうてい届かないことに気づくから。 後悔はしない。あれは私の精一杯だったから。 でも、あの頃の自分を思って、ちょっと泣く。
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<528> こくーん |
■2005年03月06日 日曜日 20時43分29秒 |
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ふと、自分の父親の実家に行ってみようか、と最近思い始めた。 そこに父がいるかどうかは分からないけれど。 両親が離婚してから、父には一度もあっていないし、ましてや実家には行っていない。もう記憶が曖昧で自分の今持っているイメージが本当なのかも分からなくなっている。 離婚時、父親が定職についておらず、借金もあったため、まるで夜逃げのように私たちは引っ越して来た。そして慰謝料とか養育費とかも一切話し合いをしなかった(母は引きずりたくなかったのだろう)ため、私と父はぷっつり、と縁が切れたのだ。私の意識は母と同化してたから、 「(哀れな)父に何を言っても無駄だ。忘れるのが一番」と思ってた。 でも、本当はひきずっているのだ。今も。 父に会えなくても、父の実家に行って、そこを見て、自分の父親が現実にいたことをもう一度認識して…何かこの曖昧な気持ちに区切りをつけたいような気持ちが最近起こってきた。 父の実家の住所は分かるのだ。自分の免許証を見れば。 離婚時、本籍地をどこにすべきかわからなかった母は、子どもの戸籍だけは移動しなかった。だから未だに私の戸籍は父の実家にある。 もしかしたら、これも中途半端な気持ちの一因かもしれない。 もう少し暖かくなったら、決行しようかな。 まだ雪深いかもしれないそこへ。
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<527> ロヴィン |
■2005年03月05日 土曜日 17時27分31秒 |
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今までずっと自分の感情を支配してきた母をようやく客体化し始めている。彼女は僕ではない。僕も彼女ではない。別々の価値観を持った別々の人間だ。彼女には親からの愛情が足りなかった。僕も,1人の人間として尊重されなかった点では,愛情が足りなかった。結局,家族みんなそれぞれ傷を抱えている。でも今は自分の回復をしたい。
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<526> ロヴィン |
■2005年03月05日 土曜日 14時59分16秒 |
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母親の墓参りに行って来た。線香が燃えている間にずっと母親と話していた。 言えなかったことを伝えた。僕を1人の人間として見てくれるように御願いしてきた。それが僕が母親に出した宿題だった。僕も母親を1人の人間として見れるよう 努力したい。話すことがあったら,また会いに行こうと思う。
とりあえず,ようやく母親との対峙の第一歩ができたのだと思う。 父と兄から心理的な距離を取れるようになるまで5ヶ月,母親と 対峙するまでに半年。あっという間だったようにも思うし 長く苦しい道のりのようにも思えた。自分の思いを誰に対して 告げるべきか,家族の中の誰の影響力が自分にとって最も大きいかが 分かってきた。達成感はあまりないが,よくがんばったと思う。
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<525> こくーん |
■2005年03月05日 土曜日 04時25分18秒 |
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昨年祖父が亡くなった。生前の祖父と会ったのはたった4回だけ。 遠方というのももちろんあるが、母と継母の折り合いが悪く、断絶状態だったから。父とはもう縁がない。母は一人っ子。 だから、私の周りの血縁関係はほとんど切れているのも同じ。 その祖父の里帰り、母は久しぶりに自分の従兄弟や伯父、叔母にあった。 そうだった。祖父は兄弟が多いから、母には親戚がたくさんいるのだ。 私は初めて会う人ばかり。 その時、ずるい、と思った。 母だって1人だと思っていたのに。 私が操れない方言を使って、自分だけ親戚の中に、血縁関係の中に溶け込むなんて。 この時が一番孤独だったかもしれない。
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<524> 僕 |
■2005年03月05日 土曜日 01時43分14秒 |
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家族との思い出であまり楽しい思い出はない。小さい頃から絶えず家の中ではごたごたがあった。私はそのごたごたに巻き込まれないように、目立たないように静かに隠れていた。問題を起こさないおとなしい良い子でいた。自分の意思というものがなかったと思う。今でもそれは引きずっている。
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<523> 僕 |
■2005年03月05日 土曜日 01時33分33秒 |
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二週間前に母が死んだ。とても悲しい。母にはあまり親しみを持てなかった。母だけじゃなく、他の兄弟共だ。打ち解けて話をしたなんてことはほとんど記憶にない。家族は私にとってわずらわしいものだった。恐ろしい存在だった。それでも母が死んだとき、とても悲しくて、自然と泣き叫んでいた。死に目には会えなかった。後悔した。間に合わそうと思えば間に合ったのに。もう遅い。遅すぎた。
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<522> ロヴィン |
■2005年03月04日 金曜日 10時40分57秒 |
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死んでしまった人間との関係性を,考えるのはリアリティーがない。父や兄とは,実際に暮らしているし,その共同生活の中で自分から距離を置いたりして結果的に反抗できる。でも死んでしまった人間にはどうすることもできない。むしろ記憶の中で生きている。母は,自分の中で生きている。俺の中で俺を操作している。母が着ぐるみを着て俺になりすましているようなものだ。病床にいる時もやはり俺を頼っていた。ある歌人の詩集を枕元で読んであげたことがある。その時は,その行為はなんとも不思議に思わなかったが,そういうのは普通,夫に頼むものじゃないか?よくわからない。一体は母は俺と親父のどっちを愛していたのだ?そもそも親が配偶者に注ぐ愛と子どもに注ぐ愛はどっちが大きいのだ? 同質のものか,異質のものか?
入院中によく洗濯をした。部活が終わってから車で駆けつけた事もあった。母の死後、それを忘れるために部活に打ち込んだ。その年は父も病気で入院した。あの頃の記憶はもうないが,とにかく母の死を忘れるために必死で,忙しくしていたと思う。そんな自分に酔っていた部分もある。
父は母を愛していたのだろうか?病院で一回だけ名前で呼ぶ事があった。でも3人で出かけたりすると父はいつも影の薄い存在だった。
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<521> ロヴィン |
■2005年03月04日 金曜日 10時19分06秒 |
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昨日、甦ってくる記憶をひたすら書いていたら,母の思い出ばかりだった。そして僕は母を恐れている。なぜだろう?過ごした時間が一番多いから? 部活の試合がある日曜にも弁当を作ってくれたから? 僕の記憶の中で母は常に僕と同化というか未分化の状態にある。母を非難することは自分を非難することであり,それが怖いのか?溺愛されることが自分をダメにしているとは思っていなかった。でも僕はその時,いつも思い出す。初めて1人で電車に乗ったのは高校に入ってから。厳密に言うと高校受験の模試の時に一回使った。ひどくオロオロしながら。僕はなぜ反抗できなかったのか? 理由は二つある。一つは万引きがばれてこっぴどく絞られ,懲りたこと。快楽原則に従がって生きる事を止めた事。二つ目は兄が反抗期に挫折していたこと。兄は高校の頃に,既に抑うつ状態にあったらしい。
しかし僕にとって(恐らくとしか言いようが無いのだが)母と折り合いをつけていかなければならない何らかの理由があった。それが何か思い出せない。一ついえるのは反抗を恐れていた事,反抗したらかなり危ない状態になることを本能的に察知していたのだと思う。
初めて床屋に言ったのも高校ぐらいからだと思う。それまでは母親に切って貰っていた。彼女は俺のことを「ハンサムだ」とか良く言ってた。気持ち悪くて吐きそうだったけど何も言い返せなかった。彼女は明らかに間違いを犯している。父に求めるべき愛を僕に求めている。僕には責任がない。
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This script written by Shintaro Wakayama. |
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