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私たちの物語 - 家族過去ログ No.20
メッセージ数:400件

<400> にこ ■2004年12月12日 日曜日 02時03分02秒
昨日父の夢を見た。
私が物心ついてから、父はいつもお酒を飲んでいた。
楽しい行事の時ほど飲んでいた。
適度なお酒など一度もありはしない、一口飲めばべろんべろんになるまで何時間でも飲み続ける。
飲んで絡んでケンカして…。トラブルは数え切れないくらい。
トラブルを通り越して苦々しい笑い話も数え切れないくらい。
深酒のせいで、糖尿病→腎臓病→週3回の人工透析
そして3年前からはC型肝炎&肝臓がん。3ヶ月に一度の入院、抗がん剤投与。
人工透析を始めて少ししてからお酒を飲まなくなった。
お酒を飲まない父を見て8年余り。それでもたまに見る父の夢はいつも同じ。
酔っ払って私の家を訪ねてくる父の夢。「また飲んできてる〜」とガッカリして叫ぶ私。
お酒を飲んでいない日もあったのに、酔っ払った父の夢しか見なかった。
私の中に大きなトラウマになっているのだろう。

昨日、母から電話があった。
「病院の先生がお父さんのことで話したいことがあるからって。」とのこと。
これが意味するところはひとつだ。
昨夜は父のことを考えながら泣きながら眠りについた。
すると明け方に出てきた夢の中の父は素面だった。
初めて酔っ払っていない父の夢を見たのが、
「もういよいよ最期の時が近いかもしれない」と聞かされた日だなんて
なんて皮肉で残酷なんだろう。
<399> 夕実 ■2004年12月09日 木曜日 22時21分49秒
私が2歳の時、指を吸う癖が止められないからって、右手の親指にもぐさを乗せて灸(やいと)したね、お母さん。私の右手の親指の付け根はまだ黒く捩れたままだよ。指を吸うのはそんなにも悪いことだって、私ずっと30年以上思ってきたよ。

でもね、私の下の子は指は指を吸ってたよ。その指を吸う姿が可愛くて止めなさいってなんて言えなかった。いつも指を吸ってるから、ほっぺはいつも唾臭い匂いがしたけど、それが気持ち良くてよくキスしたよ。「5歳のお誕生日が来たら、指吸うの止めようか?」って娘と指きりした。その日から娘は一度も指を吸わなかった。「お母さん、ちゃんと出来たよ」って得意気に自慢したよ。よく頑張ったねって褒めた。偉いなと思った。

ねえ、お母さん、私は娘の指にもぐさは乗せられないよ。火はつけれないよ。どうして出来たの?そんなことが。

3歳の時、私は近くの小さな陽の当たらないアパートに住む、色素の薄い金色の髪をしたとても優しい男の子と意気投合した。男の子は私をその家に招いてくれた。とっても優しそうなママが、私を歓迎してくれて、熱い紅茶を出してくれた。生まれて初めての紅茶との出会い。うっとりするほど、優しい香り、麻薬のように甘美な匂いに感じた。世の中にこんな飲み物があったなんて、と感動した。私は馬鹿だったから、家に帰ってお母さんにその感動を報告してしまった。お母さんは、その男の子の家に怒鳴り込んだ。子供に珈琲や紅茶など与えるなんてもってのほかだってね。それきり、その子とは遊んではいけないと言われた。その男の子とは、そのひと時が最初で最後になったんだ。

そういえば、忘れてたけど、お母さんは、私にお茶と牛乳意外の飲み物は禁止したよね。炭酸なんて許せないって言ってたよ。お母さんと一緒に叔母さんの家に行った時、叔母さんが「暑い中よく来てくれましたね」とコーラを差し出してくれた。私は、叔母さんに「コーラは飲んだらお母さんに怒られるからいらない」と言ってしまった。お母さんは鬼のように怖い顔をして、「飲んでもいいのよ」って私にすすめた。私は、何でかわからないまま、飲まなければ酷いことになりそうで、そのコーラを飲んだ。慣れてなくて、喉と鼻がひどく痛かった。
家に帰ってお母さんが「何で、叔母さんの前で余計なことを言った!」とものすごい形相で怒鳴りつけた。「家では飲んじゃいけないけど、他所で出された時は余計なことを言わずに黙って飲みなさい!この礼儀知らずが!」と怒られた。
お母さんは、私の顔をいつも不細工な顔だといった。私はずっと不細工だと思っていた。中学生になって、何人かの男の子に恋の告白をされたことがきっかけで、もしかしたら私は不細工じゃないのかもしれない、って初めて思い始めた。お母さんは、私の声が汚いと言った。だからできるだけ、声は出さないようにした。ある時期は何年間か失語症になった。

父親は、私を蹴ったり殴ったり閉じ込めたりした。いつもお腹が空いていた。
いつか、米びつから米を盗み食いしているところを見つかって、気絶するまで殴られた。私が高学年になって、私がお風呂に入っていたら、必ずお風呂に入って来て、レイプするようになった。私はその行為の意味が分からなかったんだ。「絶対、お母さんにも、お兄ちゃんにも言うなよ、言ったら殺すからな」と言われた。怖かったから、お母さんにはいえなかった。今でも誰にも言っていない。

<398> シャローナ ■2004年12月06日 月曜日 00時52分11秒
私の親はしつけをどのように思っていたのだろうか
私は両親に悪いことをしないように押さえ込まれていたという感じがする
こどもってまちがったり悪さしたり問題起こすのが普通だろう
そこでひとつひとつ説明したり教えたりなだめたりしながら
生きる術を授けていくのがしつけなのではないか
私がこどものころに起こしたことなど子供としては別にごく普通のことしかないと思う。むしろ少ない、少なすぎたのではとも思う。
押さえ込んでいれば自分が安心、そうではなかったのか。
しつけは的を得ていないものなのではなかったか。
何も問題のない私だったはずなのに、いまだに自分の生きる術を持たずに
押さえ込まれてままの状態。途方にくれて生きる力すら失いそうな・・・
そうしたしつけの中で私は自分を見失ってしまったのだろう
この場を切り抜けていくのにどうして力を得ればいいの
<397> kitten ■2004年12月01日 水曜日 01時00分33秒
母は私を精神的に虐待した。私が傷ついた様子を見せると、とても満足げな顔をするあなた。私は「表情を殺す」ことを覚えた。何も感じてないふり聞こえていないふり。心の中では憤怒、屈辱感、竜巻のような感情の渦がグルグル舞ってた。そしてそれらはずっと消えないままに心の奥にまだ閉じ込められたまま。ときたまひどい威力で私の心をかき回す。

 私はとても表情の乏しい人間になってしまったようです。あなたの暴言から自分を守るために身につけた護身が、普通の社会では役に立たない。
 分かりにくくて誤解されやすい。だってずっと表情を出すことを自分に禁じてきたんだもの・・・。どうすればいいのよ??!!
 
<396> kitten ■2004年11月30日 火曜日 01時05分54秒
うちの家族めちゃくちゃ。めちゃくちゃなシステムの中で育った私の心もぼろぼろ。
 私は両親から愛されてる、いざとなったら助けてくれる、なんて哀しい妄想を抱きながら、傷続けてきたんだろう。
 もう、いいよ。両親のことにわたしには責任はない。母は私を愛せなかった。事実はそれだけ。いいじゃん、それで。
<395> ぱんぷきん ■2004年11月28日 日曜日 23時54分44秒
小さい頃、いつも不仲の両親とそれにおびえる妹たちとの間で、家族の微妙なバランスをとることに疲れていた。両親の言葉の暴力の矛先はいつも私。誰にも相談できなかった。それが数年間続いた。

その後、両親は劇的に和解し、何事もなかったかのように私の家族は妹歴史を刻んで行った。幼かった妹たちは両親の不仲や彼らの行った精神的虐待を覚えていないらしい。そのかわり、両親から受けた言葉の暴力を、時々、妹たちに横流ししていた私の言葉の暴力については、少し覚えているらしい。

そして、今。我が家は「立派な、幸福な、仲の良い家族」として世間的に知られるようになり、私は、そんな家族の厄介者となった。両親や妹たちは、私のことを「厄介者ではない」と言うだろう。しかし、言葉では言わなくとも、態度でわかる。家族の語らいの時、皆が好き勝手に話していても私が自然に話ができていない、ということの意味とつらさを、彼らはわかっているのだろうか? 「どうせ、まともに楽しく話ができない奴」くらいにしか、思っていないんだろう。一度、そう聞いたら、「被害妄想だ」と言われた。そうかもしれない。でも、どうして「被害妄想」になったか、理由を考えたことがあるのか? 妹たちは、私にしっかりしろ、大人げない、と言う。両親の特別な愛情を独り占めしていたのだから、と。あんたたちが両親から過度な干渉や精神的虐待を受けなかったのは、その「愛情」のせいだった、ということは、あんたたちもうすうす気づいていたはずなのに。私が欲しかった愛情は、そんな「愛情」じゃない。

こんな私を家族や親戚は「良い子のなれの果て」と見ている。成績優秀な「良い子」が堕落したことがそんなに楽しいのか? それこそ、ワイドショーの見過ぎというものだ。

両親の体の調子さえ良かったら、こんな家、飛び出してやる。
<394> マヨ ■2004年11月27日 土曜日 16時52分00秒
今朝、母に言われた事。
たわいのない会話から、「あなたは子供の頃から冷静よね」
冷静じゃないよ。
自分の感情を殺さないと耐えられなかっただけだよ。
<393> 柊 ■2004年11月27日 土曜日 16時13分21秒
4歳の頃、毎晩泣いて泣いて泣きつかれて寝てしまってた。
弟だけ両親と添い寝してもらって、私は別室で一人で
寝かされていた、「一緒に寝たい」って言って泣いても
聞き入れてもらえず、一人で暗い部屋で泣いてた。
<392> トラミ ■2004年11月26日 金曜日 19時47分22秒
「お母さんのこと殺さないでね、28歳引きこもりみたいに」
私は何も返事しなかったけど。
冗談だってわかってるけど、私は絶対そんな事しないよ。
妹たちのトラウマになるからね。
<391> 柊 ■2004年11月26日 金曜日 17時02分55秒
小5のとき1年間ほとんど毎日遊びに行ってた友達の家。
遊びに行くたびに、いつも友達のお母さんから
可愛がってもらっていて、そこのお家の一員に
なった気がした。
お金持ちのお家だった。
やさしい友達のお母さんが「柊ちゃん、お紅茶どうぞ」
っていつも高そうなカップに紅茶を入れて
出してくれました。
友達「ママ、〜して〜」
友達のママ「わかった、わかった!
○○ちゃん、〜しなさいね」
友達「えー!イヤ〜」
友達のママ「〜しなさいね」(いたって普通に)
こんな会話をいつも羨ましく聞いていた。
私は友達のお母さんが憧れだった。綺麗でやさしくて
品があって…嫌味のない人で、、、。こんなお母さんに
なりたい。ってその頃からずっと夢見てた気がする。
今でもその友達とは仲がいい。
去年、初めて私の家の話を手紙に書いて送った。
彼女からの返事は「平和そうな家庭に見えるやろうけど、
うちも色々あってんで」って書いてました。
そうか…。
<390> トラミ ■2004年11月24日 水曜日 10時30分56秒
私の親は二人共医者。
母の兄弟と母方の祖母も医者。
父の弟はT大出身。祖父は大学教授。
わたしは?何になるの?
当然の様に国立大の難関学部を目指していた。
それがコントロールだって気付きもしなかった。
だって
だって私が絵を勉強したいなんて言い出したら?何て言われるんだろう?
「お前には無理」?「定職につきなさい」?「何を馬鹿な事を」?
いつだって自分たちが正しいのよね。わかった風な顔して。
結局は他人の意見なんか知らんこっちゃないんでしょう?
ワイドショーで喋ってる人たちと同じね。
私がこの家を出たら、絶対この家は崩壊するわね。今まで誰が支えてきてあげたと思ってるの?
どんなふうに崩壊するのか観てみたいよ。妹たちには申し訳ないけどね。
自殺はしない。あの人たちのいない人生をやっと送れるんだもん。そんな必要ない。
私は結婚もしないし子どもも産まないだろうな。

<389> トラミ ■2004年11月24日 水曜日 10時15分02秒
どうして親なんて物がいるんだろう?
野生動物みたいに、ひとりでもやっていけるくらいに育ったら、追い出してくれれば良いのに。
私の親と、私の中の大人の私が対立してる。
親なんて、子どもに害を与えるだけだ。私の場合はそうなんだ。
学費の代わりに一括払いで大金をくれれば良いのに。
そしたらこんな家出てってやるよ!
<388> トラミ ■2004年11月24日 水曜日 10時05分22秒
じぶんの家族が こわいです
おかあさんは すぐヒステリーを おこすし
必要いじょうに 子どもをなぐります
おとうさんは おなじ家の中にいるのも いやです
いつ不機嫌になって どなりだすかと思うと こわいです
なんでもおかあさんのせいにするし いつも独りでかわいそうです

おとうさんも おかあさんも とてもいそがしくて  
わたしはおねえちゃんだし いもうとはちいさいし わたしがみんなを
ささえなくちゃ と思っていました  小学生のころから思っていました

おとうさんも おかあさんも とても不安定なひとたちで ともだちも
少ないみたいだし わたしはこのひとたちには なにも言えない

だれかにじぶんのことを 話したことなんて ありませんでした
じぶんはそんなことしなくても ひとりでも やっていけると思ってました


家族ぜんいんでごはんを食べるのは ほんとうにいやです
いやすぎて 吐きたくなります
わたし以外はみんな じぶんの思ったことを ポンポン口にだします
わたしはずっと だまっています
わたしはそういうひとが こわいです

おかあさんに わたしが思っていたことを はなした気になっていました
でも こんなわたしをつくったのは あのひとたちだったと 思い出しました

きょうにでも 家出したいです
おかねがないという理由だけで こんなところにいるのは もう嫌です
はやく出て行きたい
<387> ミルキー ■2004年11月23日 火曜日 07時21分10秒
私は色々場所が変わった。
3歳のとき父は逃げていった。アル中の母から逃げるのは妥当だと思う。
でも、私を置いていった。違う女と逃げていった。
私はその後なぜか身体障害児施設に入れられた。身体障害児じゃなかったのに。そっちのほうが安かったのよと今母は言う。
その後子供の無い夫婦の家にお世話になった。
私の4歳の記憶はいいもの。よくしてもらった。水恐怖症もここで治った。
お風呂にも入れるようになった。
鳥のために果物を切って木にさしたりしてた。
母が迎えに来た。私は嬉しかった。
走って母に飛びついた。母は弟を妊娠していた。
多分新しい生活を始めたかったんだろうな。
その新しい家族の中で虐待は始まった。
私が3歳前は夫婦の激しい殴り合いは見ていたらしいけど、多分自分に危害は無かったと思う。
弟が生まれて、私はいらない人間だった。
なぜあの夫婦の家に置いといてくれなかったんだろう?
そのほうがよっぽど幸せだったんじゃないかな。。。
<386> よもぎ ■2004年11月15日 月曜日 14時29分02秒
昨日は父の誕生日だった。

18になって逃げるように実家を飛び出してから数年。

一人暮らしの部屋から、父に「お誕生日おめでとう」と
電話しようとした。

怖かった。

今日は機嫌が悪いかもしれない。
違うことを持ち出されて罵倒されるかもしれない。
無視に近いような反応しかされないかもしれない。
けど、必死になって笑ってあたしは彼の機嫌を取ろうとするんだろう。

いろんな考えがうかんで、結局できていない。

でも、まだあたしは電話しようとしている。

誕生日に電話をしてくる優しい娘だと思われたい。

愛されたい。

ただそれだけ。
<385> lele ■2004年11月15日 月曜日 10時02分42秒
ドコモの”家族愛”というキャッチフレーズのまいってます。
通勤電車にあふれる”家族愛”の広告、見たくもないのに見てしまいます。
そして、自然と涙がにじんできて、立っているのも辛くなる。
何とかして欲しい。
<384> ゴンタ ■2004年11月14日 日曜日 19時30分13秒
娘が私に似てきた。
小さい弟にイライラ激しく八つ当たりばかりする。
何年か前私が娘にしてしまったこと。
遠い昔母親が私にしたこと。
全部伝播していく。

私は娘の怒りを受け容れることにした。
でも、夫は最愛の娘のはずなのに、あんなにべったり仲がよかったはずなのに、娘が荒れてだだコネし出すと完全に拒絶する。
以前の私を拒絶したのと全く同じ。
私はもともと他人だからもうあきらめてるけど、あんた、自分の子どもまでそうやってはねつけるの?
拒絶されて行き場がなくなったあの子は、怒りを自分に向けるようになったんだよ。
私がそこにいて抱き締めてあげられたからあの子は助かったんだ。
いっぱい泣いて、いっぱいわめいた。
泣きながら「お母さん大好き」って言ってくれた。

私の怒り・感情、娘に投影された怒り・感情。
夫はそのすべてを拒否する。
それでも一緒にいるの?それでも家族なの?
かわいいだけの家族しかいらないの?
素直で従順で、穏やかな家族しかいらないってことなの?
心の中の怒りは外に出さないと消えないんだよ。
子どもの怒りを、子どもの悲しみを、行き場のないものにしないでよ。
<383> NAC NAC ■2004年11月11日 木曜日 21時30分08秒
今日明日と、地元のラーメン屋で「通常1杯¥500が¥200!」セールをやるので、早速私は残業終了後一人で行ってきた。(友達も何名か携帯鳴らしてみたが皆不通だった) もちろんニンニク大さじ3杯、味はグーだった。
そんなラーメンの話はどうでもよくて(なら引っ張るなっつうの)、私が書きたいのは家族だ。
セールということで店内には家族連れも何組か見られたが、その「和」というか雰囲気を直視できなくて、私は家族連れから目を背けていた。そして私の心はざわざわしていた。

何故か?

そういう自分が経験してこなかったものを目の当たりにすると、必ず私の内面は穏やかでなくなる。

何故か?

子どもの時の「そうあってほしかった」それが満たされぬ故の寂しい感情と必ずリンクするからだ。

内面奥深くでは泣いている私のインナーチャイルド。叫んでいるインナーチャイルド。
そうしたものを私は直視せず、考えないようにして一気にラーメンを頬張った。
なんか感情的には寂しい味だった。

何故なんだろう?

何故そこに和を作れる家族がいるというだけで、私は美味しくラーメンを食べることができなかったのか?

全ては記憶だ。家族内での経験だ。

私はどんなに思い返そうとしても「暖かく一家団欒で食事をとった」という記憶がない。本当はあるのかもしれないが私には全く思い返せない。
私に思い出せるのは毎回毎回仕事の話や、世間の悪口、予定調和の(魂に踏み込まない、情緒に関係ない)会話、緊張、不安、ただそれだけだ。
「自分の話を聴いてもらっている」「自分の感情を確認してもらっている」「小さい自分がいつもそこにいることを感じてもらっている」
そうした子どもの成長上、必要当たり前のことが全く無視された「感情を許さない、認めない」家庭だった、我が家は。

私は今でも親と同居はしているが(お見合い成功したらとっととアパート借りる)、飯は絶対親と一緒には食わない。特に自分のインナーチャイルドと会話できるようになってからは尚更だ。
毒親と一緒に食べると私は必ず昔の「寂しかった」感情がぶり返してきて、怒りも出てくる。
「寂しさ」をわかってもらえなかった故のとてつもない怒りだ。
(だから私は「怒りを溜め込んだ」嗜癖の強いYさんやAさんに反応するのだろう)

数年前私は両親と温泉に行き(引きこもりの弟は誘っても行かなかった)、帰りにラーメン屋に寄ったのだが、そこで親父の食っている姿を見ていたら、何故か私は無性に腹が立ってきた。
その日は特別親と揉めたこともなかった私だが、「何故なんだろう?」と内心で考えてみても当時の私には原因がわからなかった。
しかし、インナーチャイルドと会話できるようになった今の私には、その原因がよくわかる。
それは今日のラーメン屋同様、家族で食っていても「美味しかった」「楽しかった」そういう家族の和による付随的なものを私は経験してこれなかったからだ。幼い心はずっと求めていたにも関わらず。
今でこそ自分がACと気がついて、インナーチャイルドと会話できるようになって、「幼い私が何を求めていたのか?」「親にどうしてほしかったのか?」ある程度はっきりと言葉で表現できるようになったが、それを当時の幼い自分に表現できるわけがない。
だから私は辛くて乖離したのだ。

「家族団欒」

それを経験してこなかったから、私はお見合いはしたくても結婚はしたくないのだろう。
何故なら同じような不幸な家庭を作るプロセスが自分の無意識にインプットされていて、余程注意深くして自分の歪んだ意識を変えていかないと、毒親同様に「負の連鎖を繰り返す」ってわかっているからだ。

大変だなACは。

必要なのは愛情なのにね。暖かい思い出なのにね。
<382> 真名 ■2004年11月11日 木曜日 09時06分39秒
今朝、父親が、大きなおかしなくしゃみを連続でしたのを耳にして、心配になった。『風邪引いたのかな』と。
私の部屋に、父の下着のスパッツが来ていたので、それを返しながら「大丈夫?」と声をかけようかと思った。
その通りにした。
気づくと、父の肩に手を触れていた。
父は、熱っぽそうな顔をしていた。
無口で、ストイックな性格だから「休めば?」とか「無理しないでね」とか言っておいた。
嬉しそうな顔をした。(父)
父に対する思いは、嫌い、か愛情なんだけど、『日和見的』みたいなことを思われなくて良かった。
ちょっと心配で、声を掛けるのを少しためらったのだけれど。
父とはほとんど顔を合わせないし、会話もしないから、やりとりはぎこちないし、客観的に見る場合でも、母のときとは違って妙に意識しすぎなきらいはあるけど、そう、感情なんて、流れてる。嫌いと思ったり、好きと思ったりする。
母の方が好き、と思っているけれど、それでもたまにすごく嫌い、と思うときがある。
兄に対しても、あまり好きじゃないと思うことはあるし、祖母に対しても、嫌と思うことはある。
友達に対してもそういうのはある。
自分に対してもある。
愛してる、嫌い、なんてそんなに簡単にコロコロ変わっては困るけれど、少しはしょうがないな。人間だから。
いろんな事を言っているけれど、私は家族を愛している。
いろんな事があったけれど、私は家族を愛している。
<381> WINNIE ■2004年11月11日 木曜日 00時00分40秒
子どもの頃、私は小児喘息だった。
小学生の時、家の茶の間にいたら、突発的に発作が起こった。息が詰まるかと思うほど、息苦しくなって、すごくびっくりした。隣接している台所では、母が仕事をしている。私は息ができなくなりそうなくらい、苦しんでいるのに母は気付いてくれない。

そうしていたら、涙がポロポロこぼれてきた。

その時の涙は、突発的な苦しさにびっくりしたのだけではない。母が、すぐに自分に気付いて来てくれないことへの、涙だったように思う。

こんなに私は、大変な状態にあるのに、気付いてくれない、という悲しい?思い・・・

私、今も、まだそれと同じ気持ちを持っているような気がした。今は亡くなっていない父にも、そういう気持ちを持っていたように思う。

母に、私の不調を理解してもらいたいと思っていた。でも、母に伝わったという手ごたえは、私には得られないのだと、思ってきた。思ってきたけれど・・・本当にはあきらめ切れてないんだね・・・

それなのに、心配してくれる気持ちを、素直に受け入れられなくなっている。成長する間に、ずいぶん、私はひねくれてしまったのだと思う。飢えているのに、与えてくれるものを信用して、受取れない・・・

とってもとっても、飢えているのに。

Copyright (C) 1998 CGI Arkadia All rights reserved.
This script written by Shintaro Wakayama.