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私たちの物語 - 家族過去ログ No.18
メッセージ数:360件

<360> 真名 ■2004年10月02日 土曜日 15時50分07秒
家族との関係について
(フラッシュバック注意です)

もともとは、祖父、祖母、父、母、兄、私の六人家族。
今は、12年前に祖父が他界し、2年前に兄が結婚して独立したので、四人家族。
父は婿養子です。
父と母の仲はあまり良くありません。
私も父とあまり仲が良くないです。
できれば会いたくないです。
だいたいにおいて、対立しています。
母とはわりと話せるほうです。
祖母とはよく話します。
一番仲がいいです。
子供のころ、父は会社の帰りが遅く、会うのは平日の朝と日曜日だけでした。とてもさびしかったのを覚えています。
厳しくて優しかった。
わりといい人だと思ってたんですが。
思春期から反抗しまして。
親には受け入れてもらえませんでした。
口答えするなとだけ言われて。
お前のような人間は社会で通用しないとか。
でも、私は父の言いなりなんてまっぴらごめんでした。
父の言うことがすべてではないし、正しいとも限らないと思っていたのです。
その時期は、愛されない、関心も持ってもらえないととても寂しい思いをしていたんですが、今は時も十分に過ぎ、その時期を越えてよかったと思っています。自分なりの考えが持てるようになったから。
父にあまり褒めてもらえたという記憶がなく、尊重されたという思いもなく、自分を認めたり愛したりするのが難しかったけど、だんだん慣れてきました。相手の期待に応えなくてもいいんだということがわかってきました。
今は、自分らしく振舞うことが出来ます。
母には、小学校の六年間、虐待されました。
子供のころは、母がとにかく怖かったです。
優しい時もあるけど、情緒が不安定な人でした。
感情のコントロールの未熟な人だったと思います。
中学生、高校生のとき、悩みはそれなりにあったんですが、母に相談したことは、ほとんどなかったと思います。
それが本当に辛くて悲しかったんですが。
今は、異性関係の話以外なら相談できます。
異性関係の話は、両親ともに全然聞きたがりません。
かなり厳格なほうだと思います。
祖母とは本当に仲がいいです。
子供のころから、可愛がってくれた、優しくしてくれたという思いしかありません。
もし、うちが核家族だったら、私はもっと生き辛さを感じて、病気もひどかったと思います。
祖父と祖母に感謝しています。
祖父は、カーッとなって怒ることはたまにある人だったけど、それ以外は全然問題なく、いつも私や兄やいとこを愛してくれました。
とても愛情深い人でした。
兄とは、今、つかず放れずのさっぱりした仲です。
たまにうちに来るけど、話らしい話はしません。
だからといって、憎み合っているわけでもなく。
私が小六のときに、寝ている間、私の体を触りました。
私は目を覚ましたんですが、気づかないふりをするしかありませんでした。
恥ずかしかったし、怖かったから。
ちょっと体をずらしたりするのが精一杯でした。
まだまだ子供でしたが、それがいけないことなのだ、ということはわかっていました。
その日以来、13年間、浴衣が着られませんでした。
ちょうど盆踊りに行った日で、浴衣を着た日だったのです。
人には理由を話せませんでした。
適当なことを言って、着ませんでした。
本当はすごく着たかったのだけれど。
去年、思い切って着てみました。
嬉しかったです。
中三になって、兄にレイプされそうになりました。
寝ている間でした。
気づくのがあとほんの一瞬遅かったら、レイプされていたと思います。
その事を考えると本当に恐ろしいです。
その事件は、最も大きな心の傷になりました。
激しくフラッシュバックの起こる、4年前の夏まで、自分の心の奥底に沈めて、忘れていました。
トラウマ直後、私は発病し、学校に行くのも生きるのも嫌になっていたんですが。
兄は、その事件を忘れていたらしく、私が通院し初めて1年くらい経ったころ話すと、手をついて、頭を下げてきました。
兄のことも、母のことも、許せず、激しく憎み怒りが収まらないときがありましたが、今は、だいたい許せていると思います。
父のことも恨んでいました。
「未熟なものによる過失」。この言葉はあまりに簡単かもしれないけれど、今、私はそんなふうに思ってだいぶ許せてきています。
悲しい気持ちはしかたがないけれど。
自分の心を癒して回復していくしかありません。

ありがとうございました。
<359> 夕立 ■2004年10月01日 金曜日 14時40分16秒
「毒になる親」を読んだあとこれ↓を書きました。
「ひどい!」と思う育てられ方をしてきたんだ、とはじめて思った。
「祖母」という存在が、私の心に絡み付いている。
「私を見捨てないで」という祖母のメッセージをまともに受けて育った私は、
期待を裏切れない、見捨てられたくない、いつまでも受け入れてもらえないという
思いを抱きながら今まで生きてきた。
 
私は、母の身代わりで、祖母の分身で、母の分身であった。
私は私ではなく、「お姉ちゃん」であり、「孫」であり、「いい子」であり、
それに加えて、母の意を反映した「捕らわれることのない自由な精神を持った子供」であった。

私は、母の嫌悪する祖母の性質であり、祖母が批判する母の性質を併せ持った子供になっていた。
そして、母に愛されたい、という思いが、その両極端な性質を分断し、
私の中は混乱して、何が正しいのかわからなくなっていた。

そんな気がする。
<358> 夕立 ■2004年10月01日 金曜日 12時59分42秒
私は,二人の母親に育てられた。
一人は,私の母親。もう一人は,母親の母親。

幼い頃,私は,仕事でいない母の変わりに,日中は祖母に面倒を見られていた。
祖母は,アル中の祖父と共依存関係にあり,ヒステリックで外面がよく,完璧主義で,よくよく考えてみると,私は幼児期の祖母による子育ての影響を強く受けていると考えられる。

母は,望んでいなかったことだけれど,結果的には,私は祖母に育てられたも同然となり,ACの性格を受け継いでしまった。
母自身が,ACであることに気づいたのは,私が小学生になってからだった。

そして,私も気づいてしまった。
自分も,母の分身として,祖母の庇護の元に大きくなり,(母の庇護は受けられないまま)幼い頃に植え付けられた、数々の負のメッセージを増殖する形で成長してきてしまった。

これは運命なのだろうか。受け入れるしかないのか。
責められるべきは,祖母であり,母であり,私ではないが,私は母の庇護を受けることはもうできないのだろうか?

あの家の、歪んだ歴史の中の構成要素としての私ではなく,
生まれたままの、ありのままの私として生きる道は、もうないのだろうか?
<357> クラゲ ■2004年09月30日 木曜日 07時27分53秒
姉への手紙に補足を書いた。
別便で追って送らなくちゃ。

今日、肝心なことに気づいたのだ。
なぜ親が私の生活をあんな遠くで見たこともないのに勘違いしたのか。
価値観の違いからあの人たちは私が悪いと判断したのはわかるけれど、
どこでそんな判断材料を見つけたのかがわからなかった。

愚痴はいうもんじゃないですね。反省。
友人にだってそうだけど、家族にだって同じこと。
ひどい話だ。

それにしても疲労感が大きい。
もうたくさんだ、こんな辛さ。
<356> クラゲ ■2004年09月29日 水曜日 21時44分22秒
結局、文化や価値観など私が自分で選び変わってきたものをあの人たちは理解していないのだった。
それは当然だろう。
私が自ら話したことがなかったから。わかるはずもないと思っているから。
決して意地悪ではなくて。
そして、その価値観の違いが、ここのところのあの人の不快な言葉の原因だった。
思ってもみなかった原因がようやっと明らかになった。

あの人たちに故郷で会うとき、私はあの人たちのやり方を尊重して振る舞った。
押し付けたくなかったから、正反対とさえいえる価値観の話はいっさいしなかった。
長くいるわけじゃない。心地よく過ごしたかった。
あの人たちは私の住む場所を訪れたことなどなかった。
来たならば、いくらでも私の生き方を見せることができたのに。
あの人の家はとっくの昔に私の家じゃない。
私の住む所に来てくれれば、私なりに歓待したのに。
私にそういう気持ちは十分ある。

理解していないのに、あの人たちは私に一言も聞いてきたことがなかった。私の生活について。
いつものように。昔からそうであるように。
そして、私以外の人に、非難の言葉を漏らしていたのだ。
昔と何も変わっていない。私の価値観がはっきりし、時間が経っただけ。

姉に手紙を書いた。
先回とは違い、これは送るつもりだ。
彼女のものとも違う私の価値観を少しでも伝えておきたい。
わかってもらえなくても、信じてもらえなくても、今はどちらでもいい。気にならない。
これで、一段落つく。
あとは自分の問題に取り組むだけだ。
それにしても悲しい。
<355> クラゲ ■2004年09月29日 水曜日 01時42分39秒
もともと、私には母はなくてはならない存在ではなかった。
いや、母という存在は子どもとして永遠に必要だけれど、母であるあの人を私は高校生の頃から心の中で必要としてはいなかった。
その代わりの存在は友人たちだった。ありのままに話をできる友人だった。
母にはありのままの自分を見せることができなかった。
話してみても通じないとわかったから、あるときからきっぱり自分の中で線を引いた。
時を経て、親も年をとったと感じた。
自分も社会にそれなりにもまれ、成長したと感じた。
私に何かできるかも知れないと思い、歩み寄った。
今の私なら家族を演じることができるかも知れないという小さな自信があった。

しかし、私の状況が不安定になると、昔と同じ関係が蘇った。
そう、しょせん、私にとっての家族は頼るものではないのだ。
そんなことずっとわかっていたはずなのに、やはり一度甘えてみたかったのかな。
あの人は昔同様私を理解しようともせず、それでいて見えないところで私を非難した。
あの人が成長などしているはずはなかった。
そして今また、はっきり線を引き始めた。
あの人に線を引いて生活することなど、大した事件ではないはずだ。
思春期の頃から問題なくそうしていたのだから。
それでも、しょせん必要のない人なのに、なぜ私はこんなに傷つけられるのだろうか。
自分に集中しよう。自分が築きつつある家族に集中しよう。リセットだ。

父親のことを私はほとんど書かない。
それは、父親の存在が私の心の中にないからだ。
あえて無視しているわけではない。
あの人は他人より遠い他人のよう。
その分彼に関しては私の心は穏やかだ。
酒を飲んで怒鳴るか暴力でしか自己表現ができなかった人。
養子として妻の家系に入り、自分の性格もわざわいし、何の決定権ももてなかった人。
子どもの前で毎日妻に叱咤され、子どもにさえ邪険に扱われていた人。
それでもあの人は、外で自分の好きなことをして自分を癒すことを知っていた。
だから心配はない。
それができない母の方が哀れだ。
<354> 木の芽 ■2004年09月24日 金曜日 16時32分12秒
『フラッシュバック・父の暴力』
フラッシュバック要注意!!

これから書くことは、『恨みの棚卸し』のほうが適しているのかもしれません。
しかし今の私は、暴力を振るった父に『恨み』を感じていないのです。
だから『棚卸し』はできません。
けれども、フラッシュバックした記憶を自分の中だけに閉じ込めておくのは苦しいので、今回ここで吐き出します。

あれは多分、私が中学生くらいの時のことだ。
父が突然私の部屋に入ってきて、私の服の襟を掴み、そのまま床に引きずり倒した。
私は横向きに倒され、とっさに顔を覆った(ような気がする)。
父は私の腹部を何度も蹴り、一旦私の身体を仰向けにしてから、腹部を踏みつけた。
私は「このままでは死ぬ」と感じた(ような気がする)。
父の両足を掴んで手前に引っ張った。
父は仰向けに倒れ、その隙に私は逃げた。
しかし後ろから髪の毛を引っ張られ、再び部屋まで引きずり戻された。
そして頭部を両手で掴まれ、捻るように床に倒された。
仰向けになった私の上に、父は馬乗りになり、そのまま私の首を絞めた。

…今回フラッシュバックしたのは、ここまでだ。
なぜ父が突然暴力を振るい出したのか。
私はあの後どうなったのか。
思い出せない。
狂ったように血走った父の眼が、頭から離れない。

両親の家を出てからは、親の元に行くことも少なくなり、特に父とは連絡もほとんど取らない状態である。
だから父が今も暴力を振るっているのかは不明だ。
親の元から離れたことで、父が私に振るった暴力は、私の記憶の底へと沈んでいたのだろう。

私は、父から受けた暴力を「虐待」だと認識しているのか?
わからない。
腹部を蹴られ、髪を掴んで引き摺りまわされ、首を絞められ…。
それは「暴力を振るわれたことをフラッシュバックした」ままで、止まっている。
しかし、今回フラッシュバックによって蘇った父からの暴力に関する記憶は、私の心を苦しめた。
苦しかった。
そして今も苦しい。
この苦しさとどう向き合っていこうか。
今はまだわからない。
<353> さほ ■2004年09月24日 金曜日 15時19分17秒
大嫌いな学校から帰ってくると、家で落ち着く暇もなく大嫌いな父親がすぐに帰ってくる。(4時頃に帰ってくる)
狭い家の隅っこにいた。
家族の団欒なんて、あったかな?
いつも、食事の時間になると、憂鬱でしかたなかった。
一言もしゃべらなかった。何も質問されなかった。
一人で食べた方が気が楽だった。
母親に文句を言うと、すぐに「お父さんに言うからな。」
夕飯になると、説教がずっと、続く。
耳をふさぎたくなる。
最後に「お父さんがその気になったら、腕の1本や2本折るの簡単やねんで。」
これって、脅しだよね。
自分の思ってる事、考えてる事が言えない。
父親の言うことは、絶対だった。
冗談言って笑いあった事なんかなかった。
私には笑いの感情がない。凍りついてる。
<352> かおるん ■2004年09月23日 木曜日 02時10分56秒
私にとって「家族」とは、『痛い』『辛い』『悲しい』『淋しい』しか
味あわせてくれないものだった。
当然、自然と感情の表現は無くなり、封印してしまったのか、
記憶はだんだん曖昧に、欠落するようになった。

そんな中、ふと、数少ない「楽しい記憶」を思い出した。

家族で晩ご飯を食べながら、父と母が会話をしていた。
ふいに父が、使う単語を間違い、結果変な意味になってしまった。
瞬間、母が大笑いし始めた。それはもう・・・、お腹を抱え、咳き込む程だった。
父の顔を見ると、初めは照れ笑いをしていた父も、母につられて
次第に大声で笑い始めた。
小学生の私は二人の様子を見て、楽しそうなので自分も笑ってみた。
すると、どんどん、どんどん楽しくなって、私も母同様
お腹を抱えるまでに笑ってしまった。
父は涙を流しながら、「お前ら、後で覚えとけよ。」
と言ったが、それが余計に笑いのツボにはまってしまい、
しばらく3人は笑い転げた・・・・・・・。

一番、楽しかった記憶。
殴られも、けなされもしなかった、あの時間。
私も仲間に入れてもらえたのかな、という期待感。

とても・・・とても不思議な時間だったわ・・・。
<351> 柊 ■2004年09月21日 火曜日 23時34分51秒
盆、正月が憂鬱な子供って私ぐらいかも。って
小学生の頃からいつも思ってました。
長期休みになると必ず、両親の大きな喧嘩がありました。
だから、盆や正月が近づくと憂鬱で仕方がなかった…
学校が休みに入るのも嫌だった。ずっと学校に
行ってたかった。友達がいるし。家に私の居場所がないから
学校のほうが自分の居場所があった気がする。
<350> クラゲ ■2004年09月21日 火曜日 09時39分21秒
闘っていれば表情も険しくなるだろう。過敏にもなるだろう。
護ってくれる人がいないなかで、自分はよくやってきたと思う。
なにごとも誇張なく等身大で、自分の道を切り開いてきた。

ほぼ半生を生きて、一休みした。長い一休みをした。
目に見えない痛みの深さ大きさを知った。
心の痛みが体にまで及ぶことを初めて知った。
そして時を経て、身近な人々の愛を幸いにも感じつつ、また起き上がった。
また人生をてくてく歩いていこう。
ざわめく木々や顔をのぞかせる光が包んでくれる。
気がつくとそこにいてくれる。
わたしは自分を認める。

今日は決心をした日。
<349> U ■2004年09月21日 火曜日 01時43分04秒
続きです。

あまりにもリアルに思い出しすぎたせいか吐き気まで
してきた。

吐き気がしようが、書き上げて見せる。
でないと、成仏できない気がする。

4歳半ば、母が妊娠。

弟の喘息発作と母の妊娠によって、私は更に孤立するようにな
る。
思えば、この頃まではまだ私に対する母の笑顔があったが、妊
娠を機に無くなったような気がする。

でも妊娠と喘息発作ってやっぱり大変だったろうな、と思った
りもして。

この頃から買い物も留守番させられるようになった。相変わら
ず、絵を書く毎日。
確か、父が自作の「あいうえお帳」をくれた記憶がある。愛され
ていたんだろうか。

5歳。

幼稚園を卒園してすぐに引越し。
バタバタとした家の様子を覚えている。

そして妹を出産。

苛々した母。何をしても何を喋っても怒られていた。

一年生の頃「○○って子がおってなー」と学校の話をしようと
した時、母にえらく怒られたことが蘇る。
「おった、じゃなくて、いた、でしょ!!そんな言葉は日本語
には無いよ!バカな言葉ばっかり覚えてきて!!」

…あまりの剣幕に言葉を失い、部屋で泣いた。

「日本語には無い」!?先生も言うてたのに…と矛盾を感じつ
つも、素直に5年ぐらいまで「おる、おった」を使わなかった
私。
ただの関西弁ちゃうの!?今なんて思いっきり使ってる母にケ
リを入れたくなったり。

育児と子供の病気で苛々してたんやろうけども、当たり所が違
わない?

母と私の関係を象徴する出来事。


二年になり、祖母と祖父が同居することになった。
しかも同居してすぐに祖父が寝たきりに。つまり母は育児、看
病、介護三拍子。

その鬱憤や愚痴は私に向けられてしまった。

毎日毎日、
父がいかにだらしない人間でダメな人間かを懇々と聞かされ、
そんなダメな人間になったのは祖母がそういう人間で、そんな
風に育てたからだ、と。

あんたの顔はおばあちゃんにソックリで気持ち悪い、きっとあ
んたもズボラな人間になる、と。
当時の私は、お母さんに好かれるにはどうしたらいいんだろう
と考えていた。
(この愚痴は未だに言う)

二年の初夏、父が「宿題を済ませたら花火をしよう」と言って
くれた。
大喜びで宿題を済ませ父の元へ。野球に見入っていた父の腕を
掴み
「宿題終わったよ!早く花火しよう!約束やで」このようなこ
とを言ったと思う。

その時、突然胸倉を掴まれ玄関に連れて行かれ、殴られた。

何が起こったのかわからずほっぺたを押さえて震えていたら、
母が「あんたがしつこいからやん」と言った。

しつこくなんて言ってない、一回しか言ってないと思っても怖
くて声も出ない。立てない。
またテレビに向かう父と母。玄関で声を出さないように泣いた


父が初めて私に手をあげた日の記憶。

その日から暴力は頻繁に。そして当たり前のようになっていっ
た。
泥酔した父が玄関先で嘔吐する音が聞こえる。

私は電気を消し布団にもぐりこむ。
でも引きずり出され殴られる。理由は妹が泣いていたから、と
か色々。

「おまえまたいじめたんかー!!」といって殴る蹴る。

母は「お父さん、外に聞こえる!恥ずかしいから静かにやって
!」と。
助けてもらった記憶は無い。
家族みんな私を生贄にして嵐が過ぎるのを待っているようだっ
た。


3年の正月。

近所でしこたま飲んで帰ってきた父が、玄関先で母と喧嘩を始
めた。
一升瓶で母を殴り、母の手には包丁が光る。
泣き喚く妹、黙り込む弟二人の手を取り台所へ避難。
祖母が二階から降りてきて一言。「あんたが悪いんでっしゃろ
、○○さん(母)。うちの息子は簡単に怒る子とちゃいまっせ」

なんかこう氷のような感じを受けた。
父からも母からも祖母からも。

その頃、父が交通事故を起こした。保険の切り替えの間に起き
た事故で保険金が出ず、給料のほとんどを事故の相手に支払っ
ていた。
その日の米も無いような状態が続き、ひもじい思いをした。
父は現実逃避を始め、家に寄り付かなくなってしまう。
たまに真っ昼間、帰ってきたかと思うとお菓子を渡され「お父
さんとお母さん、どっちがいい?」という質問を何度もされた


母は母で「○○くんと○○ちゃんは(弟と妹)喘息があるからお
母さんがついてなアカンやろ?Uは元気やからお父さんとこ行
ってね」と言う。

私はその時に感じた絶望感をここにどう書いたらいいのかわか
らない。

私はいらない子なのかな。
お父さんと二人なんて死んだほうがマシだと思った。

弟と妹は喘息だから母の傍にいられる。
健康な体が嫌だった。贅沢な話だが。

そんな中、話が前後するかもしれないが旅行を思い出す。
海でキャンプをした。近所の何家族かと一緒だった。
前後はよく覚えていないが、その時も殴られ泣いていた。

最近母に理由を聞くと
「お父さんな、近所のおっちゃんと喋るお母さんに嫉妬してな
、Uに当たったみたい」

驚愕。思い出せないわけだ。私の理由は無いんだから。
そんなん伏せとけよ。嘘でもいいから話作ってくれよ。
軽く話す母に殺意すら感じてしまった。

そして毎度そんな理由で殴られていたことを再確認。


3年後半、大好きな先生が産休に入って代わりの先生がくる。
記憶はその頃から4年まで無い。

5年、初めての男の先生。なんと半年くらいで生徒へのセクハ
ラが発覚。
学校から居なくなってしまう。
次の先生は生理的に嫌いだといつも感じる人だった。

その頃から私とクラスの数人で、ある女の子を虐め始める。
それが学校の知るところとなり、校長室へ呼び出された。
母は動転しまくっていた。
「そんな風に育ててない!」と絶叫していた。自分の子育てに
は自信があったんだろうな。

それから半年ほど不眠症になってしまう。←今でこそ不眠症だ
ったとわかるが、当時は死んでしまうんじゃないかと思ってい
た。
夜になると言い知れぬ不安感(?)みたいなものに包まれて、汗
が出て震えてきて。

何度も何度も2段ベッドから降りて母の元に向かおうとしては
やめて。
分、いじめてしまった罪悪感とかもあったんだろうな。

それからしばらくして虐めた子の家へ単身で謝りに行ったこと
を覚えている。
もちろん門前払いだったが。

6年。

それまで友達の間では人一倍明るかった自分が内向的になって
いった。
<348> U ■2004年09月21日 火曜日 01時31分23秒
思い切って過去を思い出してみた。

昭和46年、誕生。


※生後から2歳くらいまでの話は母から聞いたものです。

難産で25時間かかったとのこと。父は待っている間、祖父と
酒を飲みだし生まれた時は泥酔だったそうな。未だに父を責め
る母。

夜泣きがひどかったらしく深夜おんぶで街を徘徊していた。

翌年には弟が生まれ生後3ヶ月から喘息の発作が起きるように
なった。

必然的に私は一人でいる時間が増えた。



※ここからは私の記憶。

49年、3歳

物心ついた頃から暗い部屋で一人、絵を描いていたことを覚え
ている。

弟の発作が起きれば、紙と色鉛筆を用意され私を残して母と弟
は病院へ。

夜勤の多かった父もいない部屋で、こたつの明かりで絵を描い
ていた記憶。

電気の紐に手が届かなかったっていうだけなんだけど。

でも3歳。つけていったれよ、と思ったりもして。

私も二児の母としてその大変さは痛いほどわかるのだけど、も
うちょっと配慮してやれんか?と未だ考える。

弟は日増しに発作が激しくなって私は孤独な夜が増える。



そのお陰で幼稚園では絵の才能が突出してると言われ、担任の
先生から専門的なところで勉強することを勧められる(母談)

今は子供が喜ぶような漫画を書く程度(笑)



母は今も「4歳までのあんたはとんびがタカを産んだかってく
らい賢くてわがままをいわない子だった」という。

わがままを言わない子なんて普通じゃない。



50年、4歳

ついに弟が強い発作を起こし、肺炎を併発。生死の境を彷徨う


医者からは「もう手のほどこしようがありません」と言われる
レベル。

私は良く事情が飲み込めないまま、父の弟夫婦の家で世話にな
ることに。

そこの家では私より1歳と2歳下の女の子が二人いる家で、正月
と盆に顔を合わす程度の付き合いだった。

母からは「絶対に泣いたらアカンよ」と100回くらい言われた
んじゃなかろうか?

弟が死にそうなこと、家に帰れるのがいつになるかわからない
こと、泣いてはいけないことだけわかった。

どうして母は私を安心させるようなことを一言も言わなかった
のだろう。

私の娘は今保育所に通っているが、毎日の送迎でも号泣すると
いうのに。

母の言葉の強い呪縛によって私は泣かなかった。

夜中一人でトイレにも行った。(自分の娘と比べると信じられ
ない)

ただ淡々と毎日を過ごした。母からの連絡は無い。父も会いに
来ない。

いつ終わるかわからない他の家族に混じった生活を半月ほど過
ぎた頃、電話が鳴った。母だった。



「○○くん、大丈夫なったよ。もうすぐ迎えに行くからね」

弟が無事で良かったという気持ちと、母の声を聞けた安堵感で
嗚咽がもれそうになって、返事もせず口を手で覆い階段の下で
涙を流したのを覚えている。

この場面は他の記憶より鮮明だ。

そんな時なのに「泣いてしまった、怒られる」と思っていた。



今思うと、母も中途半端に連絡するよりはっていう考えがあっ
てのことなんだろうなと思ったりもするが、私が驚くのは自分
の忍耐力について。

よくそこまで4歳の子供が感情を抑えられたもんだ、と。

何度も言うようだが、4歳というのは「ルールなきエゴの塊」
であって

5歳とは違うモンスター的わがままなだと。

3歳に比べると言葉がはっきりしていて、意味はわかっている
ようでわかってなくって。

娘が今4歳だから声を大にして言わせてもらうけど、

「そんな4歳おらんやろー!!」です。

そのことを考えもせず、ただ「良い子だった」で済ませる母に
ますます不信感が募ったり。ま、いっか。



私は母に甘えた記憶が本当に無い。

抱きついたり膝枕したり。今の私が娘としているようなスキン
シップ。

だから今、育児を通して生き直しているのかもしれない。

泣けなかった4歳の自分を娘を通して抱きしめているのかもし
れない。
<347> 黒ネコ ■2004年09月18日 土曜日 03時51分27秒
近所の喫茶店がつぶれた
そこは昔、父と兄と三人でよく行ったとこだった。
いつも注文するのは日替わりランチ。
父の口ぐせは「お母さんの料理とは比べものにならないほどうまい」だった。
店主とも知り合いで、いつもサービスしてくれた。

あの頃は楽しかった。
母と父の関係はすでに破綻していた。
けれど、父と兄と私の関係、母と兄と私の関係は、それぞれ上手くいっていた。
母も父も好きだった。
まだ子どもだったせいかもしれないが・・。

その喫茶店がなくなっていた。跡形もなく・・
以前から営業してなくて廃墟のようになっていたことは知っていた。
けれど、その建物を見るだけで、昔の思い出にひたっては
懐かしさと少しの苦さを味わっていた。
それなのに、建物自体がなくなってしまった。
跡形もなく、何にもなく・・。

まるで私と父の関係のようだと思った。
前は親子という関係があった。
けれど今は、戸籍上の関係もなくなったし、
心のなかでもとても遠い人になってしまった。
父でさえない、大切な人でもない。
あるのは血のつながりだけ。
なんて薄い血なんだろうと思う。
<346> 木の芽 ■2004年09月16日 木曜日 18時57分04秒
※<345>に関する修正:3行目
 
 “親の「親に服を買ってもらった」という話を聞いていた時だ。”
                ↓
 “親友の「親に服を買ってもらった」と言う話をきいていた時だ。”

  書きながら、混乱していたようでした。
  ご勘弁を。
<345> 木の芽 ■2004年09月16日 木曜日 18時52分16秒
『与えること・要求に応える事』

断片的だった記憶の一部が蘇った。
記憶が蘇ったのは、親の「親に服を買ってもらった」という話を聞いていた時だ。

私の家では、自分から主張しない限り、何も与えてもらえなかった。
しかし、私が主張しても何も与えてもらえない。
他の兄妹たちは、「これが欲しい」「こうして欲しい」と言わなくても、結構親に望みのものを与えてもらっていた。

私は、親に何かを与えてもらうより、与えるばっかりだった。
精神的な安らぎを与え続けていた。
父のなだめ役・盛り立て役となり、母の相談役となった。
家事をこなし、成績優秀・さまざまな分野での受賞で、親を『鼻高々』にした。

与え続けても、親は満足しない。
更なる要求を重ねる。
私は要求に応じる。
そうすることが当たり前だと思っていた。
『役割』をこなし、家事をこなし、成績を上げ、受賞歴を増やし…これらをずっと行い続けてきた。

そして、自分の中には何も残らなかった。
与え続け要求に応じ続けた結果、何も感じなくなった。
殆ど全ての感情と感覚が麻痺した。

以前、ある人に言われた言葉を思い出す。
「君のイメージは『空虚』。ロボットみたいに見えるよ」
他人から見たら、そんなふうにも見えていたのか。
全く実感がない。

記憶が蘇っても、悲しさを感じない。
怒りもない。
これは親に対する諦めか?
それとも、まだ嘆きの段階に到達していないのか?
わからない。
<344> すずらん ■2004年09月16日 木曜日 16時29分06秒
「鈴蘭」が好きって思ってたのも、バラが好きって思うのも、母が好きな花だからかなと、最近思う。ACは代々繰り返すって聞いて、断ち切らなきゃと、子供のために思ってる。そういえば、母に名前で呼ばれるのは叱られる時で、「あんた」って私の事だったよな、妹は名前で呼ばれてるよな、ずっと小さい時から。考え出すと色々出てくるみたい。
母が好きなことを好きでいても、喜びそうなことをがんばっても、手放しで褒めてもらったことの覚えがない。条件付の評価ばかり。嬉しかったはずの事がだんだん嬉しくなくなってきて、可愛げが無いと言われる。
すごーく辛かったり、大変だったり、痛い目にあったりした時は、優しくしてくれて心地よかったのも覚えてる。もっとずっとつづけばいいのにと思ってると、「ちょっと優しくしてやってると、この子はすぐいい気になる」と言われて、元に戻る。
こんなことは自分の子供には繰り返したくないって思いながら、時々ハッとする。
同じこと言ってる時。確かにある。
あー、私何言ってんだろ。
<343> NAC NAC ■2004年09月15日 水曜日 20時57分05秒
今日の1発目。
最近うちの家族が増えた(残念だが?私が子供をつくったわけではない)。
それは親が他所からもらった雑種の子猫で、雄か雌かは私はまだ確認していないが、行動を観察していると雄っぽい。
名前は(死んでしまったであろう)前猫と同様、私は「にゃん吉」と呼んでいる。
今度のにゃん吉は前猫と比べて度胸があってよく懐く。
前猫は逆V字の梯子の頂点に置いても降りるのにかなり日数が掛かったが、今度のにゃん吉はすぐ降りてきた。私はびっくりした。
それで意地悪して私はもう一度同じ所ににゃん吉を乗せたが、恐る恐るでもまた降りてきた。
う〜ん、かなり見所のある奴だ。
そして私が歩くと先回りし、止まると足回りでじゃれつく。
それに「にゃん吉にゃん吉」と呼んで手を叩くと走って寄って来る。
前猫は餌がないと寄って来ないふてぶてしさがあったから、私には余計にかわいい。
「如何にしたら飼い主が喜ぶか?」よくわかっている。
それにしても動物とは不思議なものだ。
会話のない家族でもこうした愛くるしいペットがいると何となく雰囲気が違う。
そういや新しい猫がやってきて皆の関心がそちらに集まっているので、在家のくま(雑種の雄犬)は面白くないらしい。「僕も遊んでよ」といつも以上に吠えている。
私は明日・明後日と練習して車中泊なので、明後日以降にくまの相手をしてやろう。
でも、あんまりじゃれつかれると臭いんだよねぇ。
そんな人間の思いは犬には関係ないんだけど・・・・・
<342> しゃくなげ ■2004年09月15日 水曜日 02時12分48秒
私も、母が「産みたくも無いのに子供を二人も産まされて」と言っているのを聞いた事があります。
その時、「普通の子なら、そんな事言われた傷つくよ。私はお母さんが精神病だから仕方ないって解ってるから平気だけど」と思ったのを覚えています。
母が、子供を産まされた事をどうこう言ったのではなく、子供を産むためにする事、つまりsexを父から強要された事を父を責めたつもりで言ったのだと言う事も子供心に理解していました。父を責めたくて言った言葉に、私の存在を否定する意味が含まれている事も。
あの時、なんの感情も持たずそういう風に考えたけど、本当は傷ついていたんだと思うし、怒っていたのかも。
私も泣かない赤ちゃんだったそうです。
その話を笑い話のように、手の掛からない子だったと話した、母と祖母。
やつら、頭おかしいです。
怒りが込み上げてきました。
<341> kiwi ■2004年09月10日 金曜日 22時55分35秒
フラバ注意かもしれないです。(言葉による精神的虐待)

私は望まれて生まれてこなかった。
「子供は一人と思ってたけど、
あんたが出来ちゃったから仕方なく産んだ」
よくこんな残酷な言葉を子供に言えたなぁと、今は感心しちゃうけど
その言葉は「あなたがいなければいいのに。あなたは必要の無い子です」
という本音のメッセージだったのでしょう。

母親の願ったとおり、私は出来る限り自分の存在を消した。
「長時間、一人で放っておかれても泣かない、手のかからない赤ちゃんだった。」なんて、まるで私が泣かなかったから手をかけなかったみたいな、
泣かない赤ちゃんだった私に責任があるような言い方だけど、
本当は逆なのでは?

私に責任があるという説を唱えるのは、母親の得意技で
長い間言いくるめられてきたけど、はっきりさせたい。

例え私の存在を認めたくなくても、私を産んだのは母親であって、
私が勝手に自分の意思であの人のところに降ってきたわけではない。
私には堂々と存在する権利があったはずだし、今もあるはずだ。

私は存在してもいいのです。

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This script written by Shintaro Wakayama.