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私たちの物語 - 家族過去ログ No.16
メッセージ数:320件

<320> ベビル ■2004年07月10日 土曜日 10時32分55秒
316の投稿に対する弁明。誤解があるといけないので、あえてつけ加えます。
子供さんを預けて長い時間働いている方もいらっしゃるでしょう。
そういう方たちを非難するような内容になってしまったかもしれませんが、
そうではなくて、要は子供に「気持ちが」どれだけ向っているかというのが
大事なような気がしています。一緒にいる時間が短くても、気持ちが通じていれば子供なりにも安心している事ができるのかなあと感じています。
私の場合は、一緒にいる時間も短かったし、いるときも邪険に扱われていた・・・
そんな思い出を吐き出してみたくなったのでした。
実際自分は今、子供と充分に交わる時間を与えられていますが、
理想どおりにはなかなか行かないのが現実です。情けないけど・・・
でもめげずにがんばっておるところです。ここの皆さんもそうだから。
<319> 黒ネコ ■2004年07月10日 土曜日 02時43分14秒
私は母と暮らしてる。
必然的にそうなっただけ。母が好きだったわけでもない。

幼い頃、父が母に暴力を振るい、両親の間にはピリピリした空気があった。
母は父の行動に敏感だった。
父は私と兄には優しかった。
会ったらおこづかいをくれる。ヒマなときはどこかに連れていってくれる。
ある意味別居だったから、父はどこか遠い人だった。
けれど、どんな親でも私には父親。だから嬉しかった。

そんな私に、母は非難めいた視線をよこした。
「あんたを育ててるのは私なのに・・」「そんな暴力夫になつくなんて・・」
そんな意味がこもってたと思う。
そして出かけていく私に「もう帰ってこなくていい。父親と一緒に暮らせばいい」
と言った。
そんなことがあってか、父と出かけるのは複雑だった。
母に対する罪悪感、母に見捨てられるかもしれないという不安・・。
そんな感情に苛まれ、どっちの手も取れなくてひきこもった。

そのころから睡眠に逃げる癖がついた。
睡眠は癒してくれた。嫌なことを忘れさせてくれた。


父の悪いところ=DV(これは犯罪)
  良いところ=子どもには優しかった

母の悪いところ=いつも怒っていた、良い子を要求してきた
  良いところ=私を育ててくれた

母が父を嫌っていたら、子どもも嫌わなければダメなのか。
母が父を憎んでいたら、子どもも憎まなければならないのか。
<318> kiwi ■2004年07月08日 木曜日 19時43分58秒
私は小児喘息だった。
明らかに精神的ダメージ(親からの肉体的、精神的暴力)を
受けた直後に、発作を起こしていた。
心の叫びが病気として現れていたのだと思う。
母もそれに気付いていた。
「私を困らせる為にわざと発作をおこしているんでしょう!?嫌な子!!」
鬼の形相で怒鳴る母。
「ごめんなさい、悪い子でごめんなさい、病気でごめんなさい。
でもわざとじゃないの。ごめんなさい。」
発作のために息も絶え絶えで、ひーひー言いながら、
苦しさと、悲しさにボロボロ涙を流しながら
こんな内容の会話をした記憶がある。
私の返事を聞いて母はどう思っていたのだろうか。
枕を沢山積み上げたり、布団の背を立てたりしてくれて、
「…可愛そうにね。どう?少しは息が楽?さっきの方がいい?」
一生懸命、看病してくれた。
毎回、毎回、タクシーを呼んで、病院まで行かなくてはならなかった。

切ないよ。やりきれない。
多分、母親のストレスは子育てそのものだったと思う。
自分の思うとおりにならない子供を虐待し、
その為に子供は発作を起こし、
その子を罵りながら、看病するなんて。
私も母も苦しくて、切ない。
ねぇ、女ってこういうものなのかな?
そんなことないよね、それじゃ、悲しすぎるよね。

父親よりも、母親の方が私に感覚が近い。
芸術を二人で鑑賞したときに、ぞっとするくらい似たような感想を持つ。
嫌悪感を感じてしまう。
もし母から虐待を受けていなければ、それは肯定的に捉えられるのだろうか。

後半はここに書き込む内容ではなかったかもしれません。
話の流れで、書いてしまいました。
<317> ベビル ■2004年07月08日 木曜日 17時28分16秒
下のフラバ注意
<316> ベビル ■2004年07月08日 木曜日 17時25分19秒
母から教わった事というのは何もない。母は私を人間扱いしていなかった。おもちゃか、よくてもペットくらいにしか思っておらず、1人格としてみてもらえた事がなかった。そのしるしのように、よく「ねこのほうがお前よりまだましだ。手がかからないし全部自分でやる」と、ねこと比較された。しかも大人の猫と、小学生の自分の娘を並べて、彼女的には猫の方が勝っていたのだ。ペット以下。朝早くから夜遅くまで働いて、日ごろ話などしていた記憶もない。話し掛けようものなら「こちとら朝から仕事してきておるんじゃ。お前みたいにぐうたら暮らしてるのではないんじゃ。ねかしちくりや!(訳寝かせてくれよ)」そんな彼女がしゃにむに働くのはお金のため。でも周囲の大人は私にこう言い放った。「お母さんはあなたのために一生懸命働いているのに、あなたは親不孝だ。お母さんかわいそう。もっと素直になって言う事聞いてあげなくチャかわいそうよ」私の為に働いている?????んだあああああ。そりゃあ気がつきませんでした。だから私は働かない。よくやっていけるね、とか言われたり、怠けているように見る人もいるけれど、お金をたくさん稼ごうとするとその分長く子供を一人にしなければならない。だからぜいたくしないで必要以上働かず、手当てをもらって暮らしている。持ち物ももらい物多い。このパソももらい物。働きすぎると、精神的に弱い私は、疲れてしまって子供の話も聞いてやれなくなるだろう。寂しい子供は心を閉ざして親の知らない世界へ行ってしまう。そんな子供に手を焼いて、そのうちお荷物のように感じてしまう。それのどこが「子供の為に働く」なんだよ。母は私に洋服ひとつ買ってはくれなかった。友達と遊びに行くときは、ジャージや体操服しかなかった。担任の前で子供の悪事をぐちる。よそのひとに、いかに自分がこの悪い娘の為に疲れているかをぐちる。「どこいっても死んでもいいけどとりあえずこっちに迷惑かけんでくれやな」といったことを話すと、たいていの人は菩薩のような顔で「あなたには分からないかもしれないけど、そんなの本心じゃないわよ」いえ本心ですよ。「子供がかわいくない親なんて世の中にいないのよ」いえいますよ。厄介モノ扱いされてますよ私。どうすればそんな風に他人を味方につけられるのか、教えて欲しいよ。「金がない金がない」といつも騒いでいた。「ぜいたくなっぜいたくなっ」が口癖。「金がない」は違うだろう。「お前のために使う」を前につけろ。母から教わった事は何もない。いつもいなかった母。いつもふきげんな母。でも悪いのは私、ということにされている。そして、自分の二の舞をふませまいと、子供を育てている私を人は、しつけが悪いという。いつも悪いのは私。はい、しつけは悪いんじゃない?子育てのモデルを知らないので、どうしたらいいのかよくわかってないから。子育てを間違えているのは認めます。認めるから、あの母にも言ってやって誰か。「アンタの子育ては間違ってたよ」って。でもあの人は今、女でひとつで苦労してきた、働き者のがんばりやさんということで、賞賛を得、友達もいる。私はしつけの悪い、だらしない親として先生や近所の奥さんからホワイトアイで見られ、友達もいない。
<315> 月子 ■2004年07月05日 月曜日 00時05分07秒
気がついたら頭痛持ちの子どもになっていた。
母に「頭が痛い」と言うと「また!?もう、おばさんみたいなこと言わないでよ」と叱られた。だから小学生の頃からお小遣いで頭痛薬を買っていた。
仕事をしている頃はしょっちゅう偏頭痛がおこり、常にBファリンを持っていた。40歳以上の同僚にも「あ〜、頭痛い。月ちゃん、薬ある?」とよく声をかけられていた。
頻繁におこっていたけど軽いものが多く、薬を飲むと霧が晴れるようにす〜っと引いていくのがわかった。
結婚して子育てするようになって、偏頭痛の回数は減った、年に2〜3回程度。でも1回の強さがすごい。吐き気を伴い、起きていられない。
1番辛いのはそれでも子どもたちの食事を作ったり、末娘がおっぱいをほしがって泣くこと。
最近はちょっと偏頭痛から遠ざかっているけど、明日、新しいグループのミーテイングがある。
親しい人のいない場。ちょっと辛いかも。頭痛くなるかも。って今から思ってしまう。
授乳中なので出来るだけ薬はさけてる。
でも、どうしても辛かったら我慢しないで抜けよう。
薬も飲もう。
頑張りすぎないで、出来ないことは出来ないと言おう。
出来る範囲だけやろう。
大丈夫、言えるよ。
今は自分が1番大事。
無理はしないよ。ラクにいこうよ。
<314> 埴輪 ■2004年07月03日 土曜日 08時15分51秒
癒しきれない痛みは母親の痛み。
波及していった家族の痛み。歪み。
どうしてうちのお母さんだけが病気になるの?
どうして他のうちの子はお母さんが何でもしてくれるの?
なんでうちのお母さんは一緒にいろんなトコへ来てくれないの?
病気は神様とあと何を恨んだらいいの?
何も感じないようにしてるだけだ。
お母さんの血の止まらない腕を見て思い出してしまった。
母親のこと何にも感じないようにしてただけだった。
<313> 黒ネコ ■2004年06月29日 火曜日 03時28分31秒
祖母は生前、私に「黒ネコ(仮)はお父さんに捨てられちゃったね」
とよくいっていた。
母も同じことをよく言っていた。

それは事実だった。
父がほしかったのは家を継いでくれる跡取り、長男だけ。
金を食いつぶすだけの女はいらなかったのだろう。
だからといって、何で母と祖母に言われなきゃならない?
そんなことを言うのは何のため?

多分、私に父を恨ませることによって、
私から父を遠ざけたかったのだろう。
そして、こっちを見てほしかったのだろう。
その作戦は見事に成功したよ。
私にとって父は、遠くて希薄な存在になった。

父にとって、私が必要ない存在だってわかってた。
兄の金は払う。けど私の金は払わない。
兄には会う。けど私には会わない。
そんな父を見てりゃ嫌でも気づくよ。
捨てられたことだってわかってるよ。
嫌なくらいわかってるよ。
それなのに、なんであんたらに言われなきゃならない!?
あんたらの思惑は成功しただろうさ。
でも、私は傷ついた!!
「そうだね」「父親なんてどうだっていいよ」そう言って私は笑った。
笑うしかなかったから。
笑うことによって、自分を守ってたんだ。
そんな気持ち・・あんた達にはわからないだろう!?
あんたた達は、笑う私を見て、上手く言ったと思ったんだろう?
私の気持ちも知らずに、喜んでたんだろう?
傷ついて血を流す私の心を知らずに、ほくそ笑んでたんだろう?
悔しいよ!!憎いよ!!殺してやりたいよ!!

祖母と母のこと愛してる。
私のことを育ててくれたから。愛情を注いでくれたから。
けど、同じくらい憎んでる!!
祖母はもうこの世にいない。そのことはとても悲しいよ。
祖母を思い出すとき、心には深い愛情と密かな憎しみが存在してる。


<312> 月子 ■2004年06月29日 火曜日 03時14分34秒
幼稚園の頃、参観日で「おかあさん」の歌を自分の母親と2人で歌う、という企画があった。担任の先生が「歌いたい人〜?」子どもたちが「は〜い」と手をあげる。普段おとなしく、滅多に手をあげることをしなかった私もなぜかその時手をあげた。そしてあてられた。
教室の後ろで見ていた母の側に行き、「おか〜さん」「な〜に」「おか〜さんていいにおい」…と歌う。拍手。
ほかにも何組か歌ったのだと思う。覚えていないけど。
帰宅後、母に言われた言葉。
「もう!はずかしかったじゃない!どうしててをあげるの!?」
お母さんが好きだからだよ、一緒に歌いたかったからだよ、私5歳だったのに。ほめてほしかった。
「上手に歌えたね」って。
小学校1年の頃、学校から帰ると靴下とハンカチを自分で手洗いしていた。
『お母さんがたすかるだろう」と思って。
でもそれについてほめられたことはなかった。
少し大きくなってそんなことしなくなると「1年生の頃の方が偉かった」と言われたことがあったけど。
母にほめられたくて、わがまま言わないいい子をやっていたのかもしれない。
小2の長男が日曜の朝、早起きして部屋干ししていた洗濯物をたたんでいた。好きなテレビも見ずに。
ああ、この子もほめてほしいのかな。
幼い頃の私を見ている様…。
「ありがとう。たすかったよ。じょうずにたたんでくれたね」
だけど何だか寂しい気持ち。
この子も私と同じに育ってるのかも。
どうすればいいんだろう…。
<311> なち ■2004年06月29日 火曜日 00時54分33秒
母に話した。色々なことを。母親らしくして欲しくて。
でも、最近、分かってしまった。母は、私たちに愛情をかけられるほど
の人間じゃない。優しく私の話を聞いてくれることは、ないのだろう。
ならば自分で自分を認める戦いで、母から貰えないものを埋めなくては。。。
そう想って戦っても、虚しいのは消えない。
だってそれじゃあ、私はひとりじゃないか。そう思えて、
自分なんて取り戻さなくていいと想ってしまう。
人から愛情をもらいたい。
<310> プレミオ ■2004年06月27日 日曜日 01時46分32秒
子供のしつけかたについて、自分は悪いお手本の結果、出来上がったような人間だと思う。

その1:しつけたことを忘れる
子供のころから、「勉強さえ出来れば」と言われ続け、スポーツなどには関心を持たせないしつけをされてきた。
その結果、スポーツはまったくダメで、勉強もそこそこしかできない子供が出来上がった。
ある日、スポーツはダメなんだと母親に訴えた。そうしたら母親は「スポーツやればいいじゃない」と言い放った。
自分が信じて歩いてきた道はなんだったんだろう?
自分そのものが否定されたような感じがした。

その2:嫌がっていることを無理やりやらせる
子供のころ、水泳教室に通わされていた。
でも、その教室の先生が怖かったので、とても嫌だった。
結局、水泳教室に通っても無意味だった。何の収穫もなかった。
子供が嫌がっていることを無理やりやらせた結末は、こんなザマだ。
ただトラウマの数が増えるだけ。
<309> プレミオ ■2004年06月27日 日曜日 01時07分48秒
子供のころ、両親の前で(自分の家のことを)「おれんち」(俺の家)という言葉を使ったら、たしなめられた。

「”おれんち”じゃなくて”私たち(両親)の家”でしょ」

子供が自分の家のことを自分の家といってはいけない。
そう感じた、子供のころの自分。
自分の存在を肯定することが出来なかった。
<308> プレミオ ■2004年06月27日 日曜日 01時03分00秒
子供のころ、家のガラスを割ってしまったことがあった。
確かバットを振り回していて、偶発的にガラスを割ってしまったのだと思う。
両親がひどく怒り、「出て行け」と一喝。
家から追い出された。

と、ここまでは、よくある話。(よくあるかどうかはわからないが)

自分の受け止め方が違っていた。
「自分の存在価値、存在理由なんかない」と思い込んだ。
家から追い出された後、どうやって自分の存在を消そうかと考えていた。
消えたかった自分。

結局、家のそばで泣いているところで、両親のほうから迎えに来てくれた。

ガラスを割ったことの罪悪感、家から追い出された恐怖感、両親が迎えに来てくれた安心感、どれも薄い記憶だ。

自分の存在をどうやって消そうかと考えていた記憶、これだけが強烈に残っている。不思議だね。
<307> 月子 ■2004年06月24日 木曜日 23時10分32秒
次男に対して優しくすることが難しい。
私が産んだ大事な子どもなのに。
長男は私の不安やストレスをたくさんぶつけられながら育った、きっと。まだ7歳だけど。だから私の子ども時代と似てる所があり、その反省を込めて接しているつもり。
長女はまだ1歳。かわいい盛り。おもいっきりママっ子で、困ることも多々あるけど、かわいい。
次男は4歳。自己主張が強く、甘えん坊。長男が4歳の頃に比べると手こずることが多い。よく言えば子どもらしい。素直に感情を出せる子。それはすごくいいこと。だけどそんな次男に対してイライラしてしまう。母にぶつけられたのと同じような言葉をぶつけてしまう。私の体に触れながら眠りたがる次男の手を振り払ってしまう。触られることは苦手。自分の子どもなのに。
そんな自分が好きになれない。
母は兄と私を産んで、流産を2回している。
母よりもたくさん子どもを産みたいがために3人産んだのかもしれない。
でも、みんなかわいい。みんな大好きだよ。
私は母とは違う。
私は私の子どもたちを心から大切に抱きしめられる。
今夜は次男を抱きしめて寝よう。
<306> 黒ネコ ■2004年06月21日 月曜日 02時29分36秒
今思うと、
母も、父も、兄も、家族のみんなが子どもだったと思う。

些細なことで怒り、母に暴力を振るい、
人前で暴れ、いつも「お前が悪いんだ」と言う父。
小心者で不安症でいつも悩みを相談してきて、
私が間違いを指摘すると逆ギレする母。
お天気屋で人を傷つけることを平気で言う癖に、
自分のことにはとことん甘い、自己中心的な兄。

そんな家族にいつも振り回されてきた。
どんな理不尽な扱いを受けても、
「自分が大人になって許さなければ」と思ってきた。
こんな大人の役回りを、いつからやってきただろう。
昔のことすぎて思い出せない・・。


小四の正月、父がちゃぶ台返しをした。
台所がめちゃくちゃになった。
外に逃げた母に向かって、父はイスを投げていた。
家から逃げた母と私は警察にいった。
取り合ってくれない警察にじれて、祖母の家に身をよせた。

そのころにはもう、大人の顔が身についていたように思う。
暴れた父をなだめ、母を励まし、心配する祖母に笑顔で応じた。
私の子どもの時間は短かった。
すぐに社会が斜めに見え出した。

あほくさい。全てがあほくさい。
やってられない。



<305> プレミオ ■2004年06月20日 日曜日 11時05分10秒
家族のルール

1、悩み事は話さない。
2.親に甘えてはいけない。
3、常に100点を取らないとダメ。
4、楽しいこと(漫画、ゲーム)禁止。
5、勉強さえ出来れば良し。
6、恋愛の話はタブー。
7、家族の話は外に出さない。
8、友達を家の中に入れてはいけない。
9、流行と無関係であれ。


ルールに沿って出来上がった子供

1、悩み事を自分の中に溜め込み、ストレスの多い子供。
2、人に受け入れてもらえないと感じる子供。
3、100点を取れない自分を徹底的に自虐する子供。
4、楽しいことがわからない子供。
5、勉強が出来ない=存在価値のない子供。
6、恋愛がわからない子供。
7、秘密主義の子供。
8、人を受け入れようとしない子供。
9、みんなの話についていけない子供。
<304> プレミオ ■2004年06月20日 日曜日 10時51分56秒
家族に転機があった。封印されていた記憶。

自分が小さいころ。小学校に上がる前。
父は優しかった。
不器用だった。
一生懸命、父親をやろうとしていた。
一緒に遊んでもらった。

それは途切れた記憶。
幼稚園ぐらいで。

いつのころからか、家族は変わった。

父は酒を飲んで寝る毎日。
女好き。
甘えん坊。
うつ状態。
父は父親であることをやめていった。
少年に戻っていった。

母は母親。
あるいは教師、あるいは教祖。
子供に夢中になった。

子供を天才児にしたかったのか。
天才児番組を熱心に見る。
子供の成績は常に100点を求めた。

天才ではなかった子供。
天才になれなかった子供。
凡人にもなれなかった子供。
ダメな子。

いつからか、母は成功者をねたむようになった。
テレビを見ていて、絶えなかった悪口。
有名人が気に入らない。
自分が有名人になれなかった嫉妬からだろうか。

とげとげしい感情。
自分は、とげに貫かれて、血まみれだった。
<303> 埴輪 ■2004年06月19日 土曜日 07時42分20秒
歪んだ愛でもなんでもいいから
母親の役割をする人間が欲しかった。
病は誰のせいでもない。
家族のせいでもなければ母親本人のせいでももちろんない。
しいて言えばカミサマとかいうやつが適当なことをやってたんだろう。
自分が母親的役割に納まってしまったために
私の中の、私の母親が欠如している。
生きてさえいればいい?
そんなキレイ事、あの時の自分が理解できる?
コドモだったのに。
家事をやる人とか、そういうことではなくて、
精神的な母親を誰かにやって欲しかったのに。
もう十年経つ。
納得したはずなのに、今の仕事を選んだことを皮肉に思う。
ACの自覚を持った上で選んだのに、何かが違う。
<302> 埴輪 ■2004年06月18日 金曜日 20時54分50秒
どうしても
「母親にもらい損ねたもの」に対する執着から離れられない。
私は何か大切なものを教わらずに育ってしまった。
感覚だからわからないけど。
つよがってたけど
やっぱり胸に空いた穴は
ちゃんと埋まってなかったみたいで
苦しい気持ちを味わった。

どんなにあがいても時間は戻せない。
例え戻ったとしても、「今」と同じ時間を繰返すだけ。
執着しても無意味なことはわかっている。

でも、欲しい。
普通の、母親が兼業なり専業なりの主婦を
子供が成人するくらいまでしている家庭の
空気を吸いたい。

なくても、生きていかれると思ってた。
でもダメ。
そのこと考えると寂しくて、孤独で仕方がない。

歪んだ愛は、とっくにあきらめがついている。
そんなんじゃなくて、
私は普通の感覚が欲しい。

時間は戻らない。
この思いも無限にループしていく。
代わりになる何かが必要だ…。
<301> ひこうき ■2004年06月16日 水曜日 04時35分27秒
思い出した。いごごちの悪い感じ。

幼稚園か小学生の頃。
父にたまに言われていたことがある。
「お前は、赤ん坊の時○○川の橋の下から拾ってきた子だよ〜。」
その時の父の顔は覚えている。
私の様子を眺めながら笑っていた。

それって?
・・ということは、私は家の子じゃないってこと?
何で父は笑っているの?
私をまた捨てるの?
混乱した。

あの時の心細い感じ。
恥ずかしいような、悲しいような複雑な気持ち。
私には、どうしようもできないことだった。
何も言えなかった。

私が少し大きくなると、父は
「冗談で、昔から、そういうことを言うもんだ。」と言ってた。
私には理解不能だった。

母に聞くと、「そんなことはない。」と言い、
ある時、小さな木箱に入った「へその緒」を
無理矢理見せてもらった。・・・証拠の品。
それホント?
母は真顔だった。
納得できたようなできないような・・・。
どうやら、母とはつながっているらしい。

        +++

思春期に入った私は、父が嫌いだった。
気持ち悪いと思った。
リクツではなく。

私は、母が結婚前に大恋愛をしたのを知っていた。

幼い頃から年に一度くらいかなぁ・・私は母に電話の取次ぎをする
私にとても親しげに話す見知らぬおじちゃんがいた。
ちょっと違和感があった。
母の電話口の対応も他の人とは違っていた。カタかった。

ある時、電話のおじちゃんと、結婚前の彼は同一人物なのでは?と疑うようになった。
(それは、当っていると思う。)

・・・ということは。
私は、母とおじちゃんとの間の子じゃない?・・と思うようになった。
別のところに本当の父がいるかもしれないっていうことにワクワクした。

母に聞いた。「私のお父さん別の人なんじゃない?」
母に否定される。
何度も追求。
・・でも、やっぱり父の子...ふ〜ん。がっかりした。

血液型の検査もした。(たまたま)
父はO型と言っていた。
私と母で調べに行った。
母:O型 私:A型
おかしいじゃん!両親O型からA型の子は生まれない。
母は、医者に採血されるのはイヤだと言った。
私は不安だった。待ち合い室は薄暗かったし・・。
でも・・・結局、母再び採血。やっぱりO型。
母は気分が悪くなり病院で横になった。
その後、自転車で2人で帰る時も母はなにも話してくれなくて・・・私は不安だった。
この日の光景ははっきり覚えている。母のきつそうな表情も。

家に帰って、母は父に事態を説明した。
今度は父が病院に行くことになった。
結果、父はA型だった。
母は、怒っていた。

事の成りゆきを見て、私が父の子であることは間違いないと思った。
とても暗い気持ちになった。

でも、どこか信じたくなかった。

      +++

19才の時、運転免許取得の為に役所に書類を取りに行った時に、
戸籍上でも間違いがないことが分かった。

あ〜あ。こんなの、冗談じゃ済まないよね。

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This script written by Shintaro Wakayama.