「小説家の空虚」
この現実というものに小説家の文章がいかに虚しいものであるか それは俺がガキの頃から何となく思っていたことだ。
機能不全家庭の生み出す凄まじいほどの苦しみを味わって そこから抜け出せない者にとって現実は過酷だ。 現実は虚構である。と言った寺山修二は敗戦による死体の山を見てきている戦中派だ。 しかし俺は虚構は虚構でしかなく とても現実に勝てるものではないと確信を深めている。 寺山流の一種のレトリックであろうと思うが 現実を虚構とでも理解しないと市民を空から無差別に爆撃して 瞬時に大量の死者を生み出す不条理をどのように理解したらいいのか。 やってられねえよ。そういう思いだろうか。
演劇を舞台ではなく そこから踏み出して街の中で演劇をやろうとした寺山のゲリラ的な実践的演劇は 現実は虚構である。という考えからきているのだろうと思う。 しかし これは寺山の鋭い洞察力が「歴史は繰り返す」を読み間違えたのではないだろうか?
平和だから殺人が起きる。
ベトナム戦争が終わって国家間の戦争は核兵器を持つ事によって終了し パワーオブバランスは恒久的につづくとでも思ったのだろうか?
殺人の理由?それは平和だから・・・。
国家が利益を追求かぎり 戦争は終わらない。一人の大統領の決断だけで議会は動かない。 利益に群がる勢力が産み出す戦争があることが現在進行しているのだ。
小型核弾頭を実践で使用するための実験費用がアメリカ議会を通らなかったが ブッシュは手段を選ばず進めるだろう。
アメリカの歴史をインディアンの立場から 黒人の立場から書き換えろ! 虐殺の歴史しか出てこないだろう。 取り返しのできない残虐な歴史をひたすら歩んできたのがアメリカ国家だ! 何度でも これからも それから先もアメリカは大量虐殺をつづけるだろう!
週間金曜日に辺見よう氏の作品が掲載された時 へたくそな文章しか書けない金曜日のルポライターに馴れた者に彼の作品は異才を放った。 さすがに小説家の文章は読ませるなぁ。とおもったものだが 竜の造形をいくらうまく創っても 目を書けない。それが小説だ。
思考を巡らすことが小説ではできても 今起きている事になんのインパクトも与えることなどできない。
「言うだけ」「言葉だけ」
寺山修二だと少しの人間はついてくるだろうから まだ説得力が伴うのだが 辺見よう氏がいくら美しい文章を書こうが 誰も動かない。誰もついていかない。せいぜい三島由紀夫の線香花火のような盾の会のメンバーだけの自滅するだけのことしかできない。
ましてや 目を書けない。目を書けばそれであなたは何をするの?竜の美しい造形がもろくも崩れ落ちていくだけのことです。
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